多摩川通信

昭和・平成の思い出など

デカブリストの乱

 

1819年の夏、若きニコライは、年の離れた長兄のロシア帝国皇帝アレクサンドル1世から、次の皇帝となるべく覚悟をうながされた。このとき、ニコライは絶望のあまり妻とともに泣き崩れた。

アレクサンドルには子がなく、アレクサンドルのすぐ下の弟コンスタンチンは帝位に就くことを嫌ってポーランド総督として駐在するワルシャワを離れようとしなかった。

ニコライは後に帝位に就くのだが(ニコライ1世/1825年~1855年)、皇帝になれと言われて絶望してしまうような国はそうあるものではない。作り話のような話だが、ロシア帝室の秘密文書に記録されたニコライ自身の手記に記された事実である。

 

その秘密文書は1825年12月14日に発生した反乱を巡る記録であり、1848年にニコライ1世が帝国尚書コルフ男爵に命じて編纂させたものである。この反乱はロシア語の「12月(デカブリ)」に因んで「デカブリストの乱」と呼ばれている。

すべてをありのままに記録させたことからは、後世に何事かを伝えようとしたニコライの強い意思が窺われる。この文書は25冊限定で印刷され、皇帝一族とわずかな側近だけに配布された。

1857年、ニコライ1世の長子で帝位を継いだアレクサンドル2世は、この秘密文書を公にすべく刊行させた。ニコライも息子のアレクサンドルもなかなか立派である。その公刊本の和訳が「秘史デカブリストの乱」(モデスト・コルフ編/恒文社)として1982年に出版された。



そもそもニコライは、なぜ絶望しなければならなかったのか。実は、絶望していたのはニコライだけではなかった。他ならぬ皇帝アレクサンドル1世自身、父帝パーヴェル1世が1801年に宮廷クーデターで暗殺される前、親友に次のように本心を書き送っている。

「わが国は信じることができないほどの無秩序のなかにあります。至るところで搾取が行われています。地方行政はまったく乱れています。秩序などという言葉はまったく無縁のものとなっていますし、帝権はひたすら領土の拡大に腐心しています。このような状態では、どうして一人の人間がこの国を十分治めることができましょうか。さらにはまた、弊害を正すことができましょうか。私のような凡庸な人間ではまったく不可能なことです」(上記「秘史」)

 

皇位継承法に従えばコンスタンチンが次期ロシア皇帝となるはずだったのだが、1822年、コンスタンチンは兄アレクサンドル1世に手紙を送り、皇位の継承をあらためて正式に辞退した。アレクサンドル1世はそれを踏まえて、1823年、ニコライに帝位を継承させる旨の国書を作成して保管させたが、この国書の存在を知る者は限られた側近のみだった。このことが後に反乱発生のきっかけとなった。



誰もが皇帝になるのを嫌がる国は一体どういう状態にあったのか。当時、ロシアの最大の病根は農奴制だった。農民は領主の土地に単に縛りつけられていただけでなく、公開の市場で売り買いされていたのである。領主が農民を売買する現場を目にした西欧の外交使節はロシアの後進性を生々しく本国に報じた。

当時のロシア帝国の人口は約6千万人で、その約7割が農奴だった。他国で工業が勃興し始めたとき、ロシアでは工業労働力を確保することができず、工業の芽が育たなかった。労働者となるべき民衆のほとんどが領主の農場に奴隷として囲い込まれていたのである。

これこそが今日に至るロシアの後進性の根源ではないだろうか。国民が政治的主体性を欠く状態が長く続いた結果、本当の民主主義が成立し得る素地が十分に形成されなかった。そしてそれは、デカブリストの乱があっけなく失敗に終わった原因でもあったのである。

さらに度重なる戦争のため、帝国は深刻な財政赤字に苦しんでいた。上記のアレクサンドル1世の若き日の手紙を読むにつけても、多少なりとも責任感のある人間なら絶望してしまうのも無理はない。問題の所在がわかっていても、国の体制を根本から変えない限り解決できないし、やるなら暗殺を覚悟しなければならない状況にあった。



そういう中でフランスなどの自由主義思想がロシアにも様々な形で波及してくる。特にナポレオン戦争に従軍し、フランス進駐を経験して新しい時代の空気を吸った若い将校たちを中心に、専制体制の変革を志す秘密結社が現れた。

「デカブリストの反乱 ロシア革命の序曲」(A・G・マズーア/光和堂)は、この秘密結社の活動を軸としてデカブリストの乱の背景とその後を含む全容を示している。

 

デカブリストの結社には、ペテルブルクを拠点とする北方結社とトゥルチン(ウクライナ)を拠点とする南方結社があった。どちらも議会政治の導入と農奴制の廃止を目指すものであったが、北方結社が立憲君主制を志向して保守的な立場を堅持したのに対し、南方結社は共和制の樹立を掲げて皇帝殺害をも辞さない急進的な行動を志向した。

このようなスタンスの違いには各々の会員の出自が色濃く反映していた。北方結社の会員の多くは著名な貴族で大地主の出身者であり近衛将校が多かったのに対し、南方結社の方は家柄に恵まれない貧しい陸軍将校が多かった。

ただし、共通する点があった。双方とも一般大衆を巻き込む内乱や無政府状態は避けねばならないという強い思いがあったことだ。どちらも民衆に信頼を置いていなかった。フランス革命の負の側面を実地に見たこともあるだろうが、農奴制の下で政治的市民の成長が欠けている現状を踏まえた現実的な認識だったのであろう。しかし、前述のとおり、それこそがデカブリストたちが志を遂げることができなかった最大の要因となったのである。

 

北方結社は比較的穏健な立場だったのだが、1825年11月19日、アレクサンドル1世が南ロシアで急死したとき、皮肉にも真っ先に反乱の火蓋を切ることになった。新皇帝の即位式が行われるペテルブルクは自ずから騒動の起点となったのである。

事態の深刻化を招いたのは他ならぬニコライだった。皇帝の死の知らせがペテルブルクに届いたとき、ニコライはただちにコンスタンチンを新皇帝に仰いで宣誓書に署名し、軍や政府機関にもコンスタンチンへの宣誓をさせた。だが、このときニコライは、自分を皇帝と定めた国書があることを実は知っていたのである(「秘史」)。それほどまでに忌避された皇帝の地位というものは哀れに過ぎる。

 

ニコライとコンスタンチンの間で皇帝位の譲り合いが続き、12月14日朝、ニコライが渋々帝位に就くことを宣誓するまでの間、異例の空白期間が生じて人心が乱れた。北方結社の急進派にとっては絶好の機会だった。急進派の将校たちは兵を集めて元老院広場を埋めた。とは言え約3千人に過ぎず、対峙する政府軍約1万人に勝利できる見込みは薄かった。

だが、実は勝機はあったのである。街路が凍結していたため政府軍騎馬隊はほとんど動けなかった。また、政府軍は反乱軍に対して攻撃を加えなかった。ニコライは皇帝就任の初日に流血の惨状を呈することを避けたかったのだ。ペテルブルク総督や政府軍司令官が反乱軍への説得を試みたがその場で次々に射殺された。反乱軍はニコライと幕僚らをも銃撃したが奇跡的に弾が当たらなかった。

このとき、反乱軍が一斉にニコライに向かって突進していれば、その後のロシアの運命は変わっていただろう。また、遠巻きに見守っていた群衆を味方につけて市街戦に持ち込めば、情勢は一変していた可能性があった。今日、デカブリストが敗北した要因は、指導者たちが革命と内乱を惹起することを恐れたことにあると見られている。

 

夕闇が迫ったとき、幕僚から強く促されてニコライはついに決断する。3門の散弾砲が引き出され、一斉砲撃が始まった。反乱軍はたちどころに壊滅した。

 

北方結社蜂起の知らせが南方結社に届くまで2週間かかった。デカブリストの策謀を政府は既に把握しており、南方結社の中心的指導者は12月13日に逮捕されていた。南方結社はわずか1千人の歩兵で決起し、露営を重ねて移動しながら勢力の拡大を探ったが、政府軍の散弾砲によってあえなく壊滅させられた。

 

政府の事後処理は苛烈を極めた。しかし、絞首刑に処せられたのは5人だけで、他のほとんどはシベリアへ流刑になった。興味深いのは「ロシア革命の序曲」に特に一章を設けて記されているその後のデカブリストたちのめげない生き方である。貧しく厳しい生存条件の中にあっても、それぞれの得意分野でシベリア住民の生活や行政、文化、芸術、教育の向上に目覚ましい貢献をした。

もしかしたらニコライはシベリア開発という明確な意図をもってデカブリストを流刑に処したのかもしれない。専制的な姿勢で嫌われたニコライ1世だが、デカブリストの証言を詳細に記録させた資料を、治世の全期間、卓上に置いてしばしば参照したという。ロシアの場合、皇帝になりたがる者より、なりたがらない者の方が立派であるようだ。