多摩川通信

昭和・平成の思い出など

第442連隊戦闘団

 

「武士道というは死ぬ事と見つけたり」

戦(いくさ)における兵(つわもの)の本領を見事に言い尽くした一言、と言いたいところだが、「葉隠」のこの有名な言葉は、実は平時の武家奉公において「一生落度なく家職を仕果たす」ための心構えを説いたものである。 

葉隠」が著わされたのは戦国の世が既に遠い昔となった江戸中期であり、「武士道」というもの自体、現実の戦が遠ざかった時代のいわば「型」である。

古来、戦場に身を置いた兵たちにとって戦は常に死と隣り合わせであり、死ぬことを覚悟してこそ、はじめて立ち向かうことができるものだったであろう。その心持ちを平たく言えば「勇気」である。

冒頭の言葉は曲解が批判されることが多いが、戦場における勇気の真髄を表わすものとしてこそふさわしい言葉であり、むしろ「葉隠」が言葉の持つ本来の意味を矮小化してしまったと言うべきではないだろうか。

 

いつだったかテレビである種の鼠の生態を追ったドキュメンタリーを見て、その類い稀な勇気を目にして感動に打たれたことがある。

その鼠は地中の巣穴でそれぞれが一定の役割を担ってコロニーを形成している。その役割の中に兵隊がある。兵隊鼠はふだんは他の鼠が獲ってきた餌を食うだけで何ら仕事をしない。

ところが映像の中で蛇が巣穴に侵入してくる場面がある。その途端、兵隊鼠たちは一斉に蛇の前に殺到し、積み重なって道を塞いだのである。そして、次々に蛇に喰われて、腹いっぱいになった蛇が巣から出ていくのを待ったのである。

本能に組み込まれた行為なのだろうが、社会性を有するほどの知能があることからすれば、死に対して恐怖を感じないはずがない。実に至高の勇気と言うべきではなかろうか。冒頭の「葉隠」の言葉はこの場面にこそふさわしいと思ったものだ。

 

第二次世界大戦のヨーロッパ戦線における米国陸軍「第442連隊戦闘団」(442nd Regimental Combat Team)の戦いは、まさに至高の勇気を体現したものとして、米国及び欧州で今日に至るまで最大の敬意をもって記憶されている。第442連隊戦闘団は日系二世の兵士で組織された部隊である。

 

米国における日系二世の人々は、1941年12月7日(ハワイ時間)の日本海軍による真珠湾攻撃を境にして、「母国」を巡る深刻な喪失の危機に陥った。

米国で生まれ育った二世にとって「母国」とは米国に他ならなかった。にもかかわらず敵性市民として親とともに強制収容所に隔離されたのである。それは将来の展望を失うことでもあった。母国政府から愛国心を否定された二世たちにとって、自己の存在の核心が音を立てて崩れていく事態だった。

 

日系人が広く社会・経済に組み込まれていたハワイでは、真珠湾攻撃の前からすでに日系人の徴兵が行われており、強制収容もごく小規模にとどまった。その日系人兵士たちによって、所属する連隊を持たない独立の歩兵大隊が設立された。後に第442連隊戦闘団の第1大隊となる精鋭「第100歩兵大隊」(1400名)である。

旺盛な士気と練度の高さが評価された第100大隊は、二世部隊の先駆けとしてイタリア戦線に投入され、1944年1月のモンテ・カッシーノの戦いや同年3月のアンツィオの戦いに加わった。

モンテ・カッシーノの戦いは、米陸軍司令官が「イタリア戦線における最も壮烈な戦いだった」と述懐した激戦だった。アンツィオの戦いも米軍が記録的な被害を被った戦闘だったが、第100大隊は他の6個大隊が挑んで全て敗退した要衝の攻略をやり遂げた。

 

一方、1943年、日系人による連隊規模の部隊が編成されることとなり、ハワイや各地強制収容所で募兵が行われた。なぜ日系人からなる部隊を新たに作ることになったかといえば、ヨーロッパ戦線における兵の甚大な損耗に備える必要があったからだ。

当時、ドイツ軍の軍事技術は米軍を上回っており、その違いは機関銃の連射速度の違いに端的に現れていた。それはドイツ側を上回る死傷率を覚悟しなければならないということに他ならない。

直前までヨーロッパへの参戦に消極的だった世論を刺激することなしに、兵の死傷を厭わず運用できる部隊は日系人部隊の他になかったであろう。そのため、日系兵は「弾除け」と噂されていた。

因みに、米軍の戦死者数はヨーロッパ戦線の方が太平洋戦線をはるかに上回っており、米国にとって第二次世界大戦の主戦場はヨーロッパ戦線だった。

 

1944年4月、二世兵士たちは1年間の訓練を終えて第442連隊戦闘団(3500名)としてヨーロッパ戦線に投入され、第100大隊がその第1大隊として組み込まれた。

第442連隊戦闘団はその後1年にわたり各地の困難な戦いで勇名を馳せることになる。二世たちは自分たちのアイデンティティを取り戻すために、戦場で米国への愛国心を示す必要に迫られていた。

 

同年10月、第442連隊戦闘団はフランス北東部のドイツ国境に近いブリエールでドイツ軍との戦闘に至った。ブリエールは人口3千人の小さな町だったが交通の要衝で、既に4年にわたってナチス・ドイツの占領下にあった。

町を取り囲む丘の上に陣取った圧倒的に有利なドイツ軍に対し、二世兵士たちは死に立ち向かって歩兵突撃(バンザイ・アタック)を繰り返した。多数の死傷者を出しながら、4日目にドイツ軍を制圧した。

解放されたブリエールの住民たちは驚いた。あの勇敢な兵士たちは屈強な大男の米国兵だとばかり思っていたのに、目の前にいたのは体の小さい東洋人の顔をした兵士たちだったからだ。

現在、ブリエールの町には、日系兵士たちへの感謝と敬意を表して「第442連隊戦闘団通り」と命名された通りがあり、戦場となった丘には「第442連隊戦闘団記念碑」が建てられている。

 

第442連隊戦闘団の数々の戦いの中で、最も米国民の注目を集めたのはテキサス大隊の救出だった。

1944年10月27日、激戦を終えたばかりの第442連隊戦闘団に戦闘復帰が命じられた。ビフォンテーヌの森(独:シュバルツバルト)の中でドイツ軍に包囲されたテキサス兵(テキサス師団第141歩兵連隊第1大隊)の救出が命じられたのである。

テキサス師団は1836年のアラモの戦いに遡る由緒ある部隊であり、国民の誇りの象徴だった。

テキサス大隊は、水・食料・弾薬を欠いたまま孤立し、生存が危ぶまれる絶望的な状況にあった。その事態は米本国でも報じられており、米国民はラジオの前で固唾を飲んで成り行きを見守った。

二世兵士1200名が氷雨の中、未明の森の中へと分け入った。

戦いはドイツ軍の砲撃の前に難渋を極めた。3日目の午後2時頃、機関銃の弾丸が激しく飛び来る中、突然、一人の兵士が鋭い雄たけびとともに突撃した。他の兵士たちが猛然と続いた。多くの二世兵士たちが敵弾を浴びて倒れた。

だが、弾を逃れた兵士たちがドイツ兵に白兵戦を挑み、激しい闘いの末、ついに二世兵士たちはテキサス大隊の救出に成功したのである。211名のテキサス兵を救出するために800名もの二世兵士が死傷した。

 

このとき最初に突撃した兵士は特定されている。名前をバーニー・ハジロという。

「二世兵士 激戦の記録 ー 日系アメリカ人の第二次大戦」(柳田由紀子/新潮新書)の著者はハジロ氏にインタビューを行った。1916年、マウイ島の生まれで、小柄な人だったという。

その戦闘時、ハジロ氏は仲間の兵士と二人で塹壕の中にいたが、仲間が敵弾に当たって死んだ。上官も既に死んでいて、指揮する者は誰もいなかった。

「なんとかしたかった。やらなきゃならんかったです」

ハジロ氏はこの戦闘で重傷を負ったが生き残った。

 

第100大隊及び第442連隊戦闘団の死傷率は米陸軍史上最大である。授与された勲章は1万8千個以上に及び、現在も米陸軍史上最強の軍団と称えられている。

2010年10月、両部隊の功績に対しオバマ大統領から米国最高位の勲章である議会名誉黄金勲章が授与された。

2021年6月には第442連隊戦闘団を称える郵便切手が発行された。