多摩川通信

昭和・平成の思い出など

グッチの再生と飛躍 

 

 

1980年代後半、ニューヨークに行く機会があり、5番街でグッチの店をのぞいてみた。特に何かを買うつもりはなかったのだが、鮮やかな色どりの女性ものの大きなスカーフが目に入った。意外にも安かったので買ってみることにした。

誰かにあげようと思っていたのだが、贈り物があるからといって相手が現れるというものではない。しかたなくアメリカの土産だと田舎の母親に郵便で送った。

受け取った母親も持て余したらしい。派手過ぎて身に着けようがなく、村の女衆の寄り合いに持って行って広げて見せたという。以後、イタリアの至宝グッチは実家のどこかにしまわれたまま話に出ることもない。

 

当時グッチは、一流ブランドの地位を固めていたが家族経営のままで、拡大する事業規模に見合った経営体制に転換できていなかった。そのため、親族内の対立や事業内容の混乱によってブランドの輝きに陰りが生じていた。

やがて経営難に陥り、グッチ家は会社を手放さざるを得なくなる。そこまではよく言われる「二代目が発展させ、三代目で失墜」を地でいった形である。

ところがグッチの物語はそこで終わらなかった。「グッチ」というブランドはグッチ家が会社を離れた後も人々を魅了してやまず、それらの人々の尽力によって再度の飛躍がもたらされるのである。

 

グッチの創業者はグッチオ・グッチという。1881年フィレンツェで生まれた。革製品の工場や工房で修行した後、1921年、鞄の製造と販売を行う個人店を開いた。

商品の品質の良さとアフターケアで人気を得て、多くの職人を抱えるまでに繁盛した。その過程でグッチオは納入業者たちと緊密な信頼関係を築いた。

 

グッチオの商売が飛躍的に拡大するきっかけとなったのは1938年のローマ出店だった。ローマはいずれ観光地として繁栄すると見た長男アルドの勧めによるものだった。

アルドはまた、「スタイルとカラーの調和」というコンセプトを掲げ、そのコンセプトの下に製品の統一を進めた。それが広く上流階級の顧客の心を捉えた。

 

「ハウス・オブ・グッチ」(サラ・ゲイ・フォーデン)は、「グッチは人々がステータスシンボルとして見せびらかしたくなるヨーロッパの最初のブランドになった」と書く。

 

1953年、アルドは慎重なグッチオを押し切ってニューヨーク進出を実現する。以後、ヨーロッパ・北米・アジアを股にかけて事業を拡大した。さらに靴や既製服も手懸けて客層を広げた。

 

1980年代、グッチオの孫たちが火種となって経営権を巡る親族内の対立が表面化する。訴訟や告発が飛び交う激しいスキャンダルはグッチの評判を傷つけた。

1985年、最終的にアルドの甥のマウリツィオが経営権を握ったが、既にグッチは雑多な商品に手を広げ過ぎてブランドイメージが損なわれ、利益が上がらない状態に陥っていた。

 

1986年、マウリツィオは米国弁護士だったローマ生まれのドメニコ・デ・ソーレを米国事業の監督役として引き入れた。デ・ソーレはグッチの経理の実情を知ったとき、あまりの杜撰さに驚愕した。

以後、デ・ソーレはマウリツィオを支えてグッチの立て直しに力を尽くす。マウリツィオが経営権を手放した後は、グッチの経営トップとして幾多の難局に立ち向かった。また、昔からの納入業者を訪ねてまわり、信頼関係の再構築に努めた。デ・ソーレがいなければグッチの名前はとっくに人々の記憶から消え去っていただろう。

 

「ハウス・オブ・グッチ」に記されている多くの証言によれば、マウリツィオは人を魅了する人物だったという。デ・ソーレだけでなく投資銀行など関係者の多くが、その経営能力には落第点を付けながらもマウリツィオを見限ることができなかった。

生き馬の目を抜くような業界に身を置く者たちにしては似つかわしくないことである。彼らを引き付けていたのはマウリツィオが背負った「グッチ」そのものだったのかもしれない。ファッションの先端で時代を拓いてきたブランドに対する特別な思いが、金銭的価値とは次元の異なるところで人の心を掴んで離さなかったのではないだろうか。当事者の言葉の端々にそう思わせるものがある。

 

中東系の投資会社インヴェストコープの代表ネミール・キルダールもグッチに魅了された一人だった。もはやグッチに融資しようという銀行がなくなった時、手を差し伸べたのが新興企業のインヴェストコープだった。

キルダールにはグッチを足がかりとして欧州ビジネスに食い込みたいという思惑もあったのだが、それにしても投資会社としては異例なほど辛抱強くマウリツィオを支え続けた。

 

1993年、ついにマウリツィオはグッチをインヴェストコープに売り渡す。2年後、インヴェストコープはアムステルダム証券取引所ニューヨーク証券取引所にグッチ株式の上場を果たした。それはファッション・ブランドが投資分野として確立する先駆けとなった。

 

しかしそれは同時に、第三者が株式市場を通じてグッチを取得することができるようになったということでもあった。

LVMHモエ・ヘネシールイ・ヴィトンが、さっそくグッチ獲得に乗り出す。LVMHは、ルイ・ヴィトンディオールティファニーなどの高級品ブランドを傘下に抱えるフランスの企業グループである。

 

着々とグッチの株式を買い進めるLVMHに対し、デ・ソーレは粘り強く防衛策を探って対抗した。しかし、万策尽き果て、もはやLVMHの軍門に下るのも目前となった時、ホワイトナイト(敵対買収に対する救済投資家)が現れる。

フランスの欧州最大小売グループPPR(現ケリング)だった。PPRは高級ブランド業界に参入する機会を待っていたのだ。

 

1999年、グッチはPPRのグループ会社になった。同時にデ・ソーレはPPRの資本でイブ・サンローランをグッチ傘下に収め、世界最高級ブランドへと飛躍する体制を整えた。

現在、グッチは創業から100年を経過し、往年を上回る輝きを放っている。