多摩川通信

昭和・平成の思い出など

天安門事件と鄧小平の思い出

 

 

12月9日~10日、米国主催の「民主主義サミット」がオンライン形式で開催された。中国とロシアは招かれなかった。

バイデンとしては大統領選挙の公約を果たしただけなのかもしれないが、このようなサミットが催されたこと自体に、何だか薄ら寒いものを覚えた。わざわざ陣営を囲い込んでエールを交換し合わねばならないほど民主主義の立場は揺らいでいるのかと。

ことさらに仲間外れにした中国こそがやりそうなことを、わが陣営の旗手たる米国がやってみせたのである。やむなくとはいえ付き合った日本も他人ごとではない。

 

前例のないサミットを開催しなければならないほど、独裁国家中国が実現してしまった経済成長のインパクトは大きかった。しかし、誰よりも大きなインパクトを受けているのは他ならぬ中国人自身だろう。

民主、自由、公平といったものの価値を認めつつも共産党による独裁を甘んじて受け入れているのは、経済成長の果実がそれだけ大きいからだ。

ひとたび中国人が立ち上がれば、その圧倒的な人口でたちどころに共産党など踏みつぶしてしまうだろうと期待したが、中国人が立ち上がる気配はない。

 

だが、かつて、中国共産党が倒れるかと思われたときがあった。1989年6月の天安門事件である。西側ではクーデターや内戦の発生を予想する報道さえあった。

同年4月、改革派だった胡耀邦の死を悼んで学生たちが天安門広場に集まり、次第に政治改革を求めるデモへと発展した。デモは日を追って拡大し、やがて中国各地に飛び火した。

時あたかも東欧の共産主義政権が大きく揺らぎ始めた頃である。中国共産党の危機感は深刻だった。5月20日北京市内に戒厳令が布告され、郊外には人民解放軍の部隊が配置された。

 

6月4日未明、人民解放軍銃口が丸腰のデモ参加者に対して火を噴いた。人民を解放するはずの軍隊によって学生たちは多大の死傷者を出して蹴散らされた。北京だけでなく地方でも武力鎮圧が行われた。正確な犠牲者数はいまだに明らかになっていないが、当時、中国当局は1万人規模に達すると推計していた。

 

「八九六四」(安田峰俊/角川新書)は、天安門事件の渦中にあった人々へのインタビューを重ね、当時の状況や心情、現時点での思いを聞きとることにより、この歴史的事件の内実に迫っている。

 

証言の中に、戦車に押しつぶされた死体をいくつも見たというものがある。軍の実力行使が行われる前に巨大なコンテナのような冷凍庫が病院の敷地に置かれたという目撃証言もある。共産党指導部の危機感と決意はそれほどまでに強かった。

現在、中国共産党天安門事件の痕跡を抹消しようとしていて、毎年6月4日の前後には事件に関係しそうな言葉の検索ができなくなるという。共産党が受けた衝撃の大きさを物語っている。

 

それほどの出来事でありながら、所詮あれでは共産党が倒れるには至らなかったという証言が多いのは意外だった。デモ隊の主張の曖昧さや視野の狭さ、中身のないアジ演説。要求ばかりで現実味がなく、市民的広がりを欠いた運動。そんなデモは次第に迷走してしまったのだ。

 

当時学生だった者たちが自ら「子どもが親に文句を言っているようなつもりだった」、「母なる共産党が人民に武器を向けるわけがないと思っていた」と語っているのには脱力する。当時、大学に進学できたのは、特権的利益を享受している党幹部の子弟が中心だった。そんな状況からくる「甘さ」が目立つ。

確かにこれでは無理というものだ。証言に感傷の気配が色濃く漂うのは、そういう実態が反映している面もあるのだろう。若さの勢いでデモは拡大したが、権力を奪取する意志も構想も欠いていたのだ。

 

現在の中国についての証言者たちの見方は醒めている。「社会問題が山積みだけれど、国民が体制を変えるために立ち上がるほどひどい国でもない」、「大部分の中国人が政府に反感を持っているなどということはない」。

中国経済がうまくいっている限り、独裁政権の中国とつき合っていかねばならないのだろう。経済成長によって国民の生活水準を劇的に引き上げることができたことが、ソ連・東欧の社会主義国とは異なる現状をもたらした。共産党の名に拘ることなく市場経済に舵をきった鄧小平は偉大だった。

 

ひょんなことから鄧小平と目が合った思い出がある。

1978年10月、鄧小平は中国副首相として日中平和友好条約の批准のために来日し、東京の日本プレスセンターで記者会見に臨んだ。

そのとき、私はたまたま向かいの日比谷公園にいて、プレスセンタービルの前で車から降りる鄧小平を目にした。もっとよく見ようと上体を前に突き出したとき、まるでお辞儀をしたように見えたのであろう。

 

目ざとく私を見つけた鄧小平は実に嬉しそうな表情を浮かべた。おそらく私を中国人留学生だと思ったのだろう。

「おお、君は我が国の将来のために日本で苦労して勉強しているのかね。秋風が吹く中、田舎臭いセーターで寒かろうに、わざわざ出迎えてくれたのだね」

鄧小平の顔はそう語っていた。確かに田舎から出てきて半年で、当時の中国人と見分けがつかなくても不思議でない。

 

しかし、鄧小平の表情は一瞬で失望と微かな怒りに変わった。私は片方の手をズボンのポケットに突っ込んだままだったのだ。

それが分かった途端、鄧小平の目に映った私は、実直な中国人留学生から、物珍しそうに眺める無礼な日本人学生へと変わってしまったのだ。鄧小平は顔を背けてプレスセンタービルの中へと消えた。

偉大な老人に不愉快な思いをさせてしまったのは、返す返すも残念な思い出である。