多摩川通信

昭和・平成の思い出など

帝国日本人一座の大遠征

 

 

幕末の芸人を写した3点の写真がある。1866年(慶応2年)から1869年(明治2年)にかけて欧米各地を巡業した「帝国日本人一座」(Imperial Japanese Troupe)の芸人たちを写したものである。

 

 その中の1点は和妻(わづま/奇術)師の隅田川浪五郎(出国時37歳)が「蝶の曲」を演じているものだ。トランプマンのマジックワールド | マジック・ラビリンス

 浪五郎は本名で、日本国発行の旅券(パスポート)第1号の交付を受けた者として知られている。

 

他の2点は「海を渡った幕末の曲芸団」(宮永孝/中公新書)に収められている。

本書の冒頭に掲げられている写真には4人が鮮明に写っており、右端の鋭い目つきをした侠客を思わせるような面構えの男は高野広八(ひろはち、旅券記載名は岩吉、出国時45歳)である。

広八は3年にわたる一座の海外遠征を日記帳に記録した。広八の役回りは「後見人」とされている。いったい後見人とは何かということになるが、広八の日記に記されていることからすると一座のとりまとめ役だったようだ。

 

帝国日本人一座総勢18名は、軽業の濱碇(はまいかり)定吉一座8名、和妻の隅田川浪五郎一座5名、曲独楽(こま)の松井菊次郎一座5名が集まったもので、濱碇定吉(出国時35歳)が筆頭座長格だった。一座には、浪五郎の妻(和妻師)と娘(三味線)、菊治郎の娘(曲独楽)の3名の女性も加わっていた。

 

広八の日記は長い間世の中に出ることなく子孫によって保存されていたが、生まれ故郷福島県飯野町史談会によって1977年に「廣八日記 幕末の曲芸団海外巡業記録」として刊行された。安岡章太郎はこの日記を踏まえて「大世紀末サーカス」(1984年)を書いた。

 

同書にはもう1点、洋風の衣装でポーズをとって微笑む子供の写真が納められている。濱碇(はまいかり)定吉の息子の梅吉(出国時12歳)である。梅吉は、定吉が肩に立てた3メートルを超すしなった竹竿の先端で、水平にポーズをとって扇を開き、「オール・ライト」と叫ぶ芸などで観衆の喝采を浴び、一躍、花形スターとなった。上述の4人の写真にも一緒に写っているのだが、一人で写っているこちらの写真は自信と余裕を感じさせる様変わりした表情で、不思議なほど古さを感じさせない。

 

帝国日本人一座を編成して欧米巡業のマネジメントを行ったのはリチャード・リズリー・カーライル(1814-1874)というアメリカ人である。

リズリーは寝転んで足で子供をくるくる回す技で一世を風靡したサーカス芸人であり、1864年に曲馬を含むサーカス団を率いて来日し、横浜居留地で日本初のサーカス興行を行った。しかし、居留地外での興行が認められなかったため客の入りが続かず、2カ月足らずで興行を打ち切ってサーカス団を解散せざるを得なかった。

リズリーは芸名を「プロフェッサー・リズリー」と称していたため、学位がなくても常に「リズリー教授」と呼ばれ、帝国日本人一座の欧米公演ではポスターや新聞広告に興行主として教授の肩書で記載された。うまいことを考えたものである。

サーカス団を解散した後は、横浜で牛乳と氷の販売をはじめて外国人居住者に大いに歓迎されたというから、まことに逞しい事業家精神の持ち主だったことがわかる。

その後、アメリカ領事館員で日本語を話すエドワード・バンクスを通訳兼アシスタントとして、帝国日本人一座のプロデュースに乗り出した。

 

広八が日記に記したのは1866年(慶応2年)12月5日の横浜出航から1869年(明治2年)4月16日の横浜入港までの出来事だけだったため、その前後のことは知られていなかった。ところが近年、1893年の「速記彙報(いほう)」(国会図書館所蔵)に晩年の隅田川浪五郎(中川浪五郎)の懐旧談が掲載されていたことがわかったとのことで、冒頭に示したホームページでその概要が紹介されている。「速記彙報」とは著名人への聞書きや講演内容を掲載した明治時代の雑誌である。

 

浪五郎の懐旧談によると、出航前の準備金や公演の給金は驚くほど高額なものであったらしい。(現在の価値への換算方法を知らないので、どれほど驚くべきかわからない・・・)

当時、日本では銀を金に交換するときの比率が欧米諸国に比べて大幅に低く定められていた(金が安かった)ため、洋銀(欧米諸国の銀貨)を日本の金貨(小判)に替えて大儲けする駐留外国人が多かった。しかし、その利益の投資対象となるような物が日本には見当たらなかったのに対し、日本で目にする軽業・曲芸・和妻は技巧水準が高く洗練されていたため、欧米での興行収益を見込んで資金を出す外国人が少なからずいたのではないだろうか。

幕府が海外渡航を解禁した当初、旅券を取得したのはほとんどが軽業・曲芸・和妻の芸人だったのは、そのような背景があったのではなかろうか。

さらに想像を逞しくすれば、隅田川浪五郎の懐旧談で、渡航許可についてバンクスが「ナーニ、行けるようにしてやるよ」と軽く請け負ったという話は、上記のような背景の下で欧米各国が渡航解禁に向けて幕府に圧力をかけ、解禁の見込みが立っていたことを示しているのではないだろうか。 

 

帝国日本人一座は、アメリカ、フランス、イギリス、オランダ、スペイン、ポルトガルの主要都市を巡業した。リズリーは行く先々で「日本の宮廷に属する帝国一座から選ばれた江戸の大君の特別な芸人たち」であると前広告を打った。一座の名称に冠した「帝国」を最大限に利用したわけだ。

芸自体の出来栄えもさることながら、日本人そのものや和服、三味線・笛・太鼓のお囃子が珍しかったこともあって、どこでも大入りと喝采を博した。

 

例えば米国ボルチモアの新聞は次のように報じた。

「彼らの容貌や姿態や音楽の斬新さにくわえて、妙技のやり方は完璧に近いものである。欧米の奇術師といえども、彼らにはとうてい及ばない。非常に素晴らしい危険な芸を行う幼いオール・ライトは我が国で人気者となることであろう。」(「海を渡った幕末の曲芸団」)

 

ワシントンではホワイト・ハウスでアンドリュー・ジョンソン大統領に謁見した。ジョンソンはリンカーン暗殺により副大統領から昇格した大統領である。

大統領から歓迎のあいさつがあった後、濱碇定吉は発言の許しを求めた。そして「このたび謁見を許されるという名誉を与えられたことは有難い極みであり、かかる恩恵に浴したことは祖国では一度もなかった」と述べた。その簡潔で率直な挨拶に、立ち会った人々は感銘を受けたという。

大統領は一座のひとりひとりと握手をして、公演の成功と無事の帰国を願うと言葉をかけた。

 

万国博覧会(1967年4月~10月)でにぎわうパリには3カ月も滞在し、大入りの日が続いて大成功を収めた。このパリ万博は、ナポレオン3世が大いなる意気込みをもって開催したものであり、幕府から将軍の名代として徳川明武(慶喜の弟、当時15歳)が派遣された。明武一行は帝国日本人一座の公演を見に来て、花代として50両もの大金(現在の約400万円)を置いていったことが現地紙で報じられ注目を浴びた。

 

安岡章太郎が「大世紀末サーカス」で書いたところによれば、勝海舟は、徳川明武のパリ万博使節団の本当の目的はフランス政府から600万ドルの金を借りてくることであり、両国間でその合意ができていたと語ったという。しかし、幕末の動乱に揺れる日本の実情はフランス側にも伝わり、有力各紙が「幕府の大君なるものは、実は日本の主権者ではなく、大名の中の有力者に過ぎない」と書き立てるようになった。結局、幕府が望みをかけた借款は不成立となり、大政奉還への歯車が止まることはなかった。

 

また、「大世紀末サーカス」は、渡航解禁後に海を渡った多数の曲芸団はパリ万博への出演を目指したように言われているが、万博開催中にパリで公演を行ったのは帝国日本人一座と松井源水の「大君一座」の2つだけだったようだと記している。

 

 広八たち一行はパリ万博の頃までは和装で通していた。それは宣伝を兼ねてもいたのであろう。しかし、和装での外出では目立ちすぎて人だかりができて難渋するため、洋服を買い求めたという。

アムステルダムでは、公演のために劇場へ向かう途中、和服を珍しがった群衆に取り囲まれ、押しのけていこうとして乱闘になった。このとき、広八は決然として脇差を抜いて振り回し、追い散らしたという。「海を渡った幕末の曲芸団」の冒頭の写真で広八が腰に差しているのは伊達ではなかったということだ。

 

広八たちは夜の国際交流にも努めた。フィラデルフィアでリズリー教授の引率により、一同うちそろって夜の蝶が妖しく舞う紅灯の巷へと足を運んだ。それで要領を得たものか、以後、欧米各地で大いに国際交流に励んだ。その描写があまりに生々しかったため、教育委員会は広八日記の刊行を拒否したという。

 

曲独楽の一座を率いた松井菊次郎(出国時30歳)は渡米後に肺を病み、1868年4月、ロンドンで亡くなって共同墓地に埋葬された。

 

同年7月、2カ月半に及んだロンドン興行を終えるときには、知り合いになったイギリス人たちが、ご馳走や土産などをもって楽屋に押しかけ、送別会を催してくれた。その後、親しくしていたイギリス人たちは、劇場の外に出ると数百メートルほどの人がきをつくり、馬車に乗ってロンドン港におもむく広八たち一行を見送った。また、一部の者は、広八たちを見送るために港まで同行し、そこで手を振りながら別れを惜しみ、一行の船出を見送った。

 

その後、一行はスペイン・ポルトガルで公演した後、12月にパリに戻った。そこで幕府が崩壊したことを知って驚愕する。しかし、そんなこととは関係なく、パリでの再度の公演も大入りの盛況だった。

 

1869年2月のニューヨーク公演を最後に「帝国日本人一座」は解散し、帰国組と残留組に分かれた。広八はお囃子などの7名とともに帰国し、濱碇定吉隅田川浪五郎らの芸人はリズリーとの契約を更新して欧米での巡業を続けた。

その後、イギリスの新聞に、浪五郎の手品やリトル・オール・ライト(梅吉)の曲芸を讃える記事が載った。浪五郎が帰国したのは1871年明治4年)6月だった。梅吉は父親の定吉とともにアメリカに戻り、1880年代までニューヨークで活躍したことが確認されている。

 

前述の「速記彙報」によると、さらにその後、浪五郎は仲間を募って、日本で曲馬興行を行ったフランス人のスーリエとともに1875年(明治8年)にウラジオストックに渡り、1884年明治17年)に帰国するまであしかけ9年にわたって海外巡業を続けたという。