多摩川通信

昭和・平成の思い出など

女優マダム・ハナコ

 

プチト・アナコ―小さい花子
 

 

森鷗外の作品に「花子」という掌編小説がある。晩年のオーギュスト・ロダンに招かれて、日本人女優がその邸宅を訪問するという話である。

通訳として同行したパリ留学中の日本人医学士とともにアトリエに入った和装の小柄な女優に対しロダンは、裸体のデッサンを描かせてほしいと言う。医学士は女優の貧相な外見に羞恥を覚えていたが、ロダンの言葉を伝えると女優は「きさくに、さっぱりと」承諾し医学士は退室する。しばらくしてデッサンを終えたロダンが現れて医学士に語ったのは、彫刻家の眼から見た女優の体の美しさを讃える言葉だった。

 

これは事実を下敷きとした作品である。この女優とは、1902年(明治35年)に欧州に渡り、以後15年もの長きにわたって欧米18カ国各地での公演で絶賛を博したハナコ(本名:太田ひさ/1868-1945)である。

ハナコの親類で文学者の澤田助太郎氏による評伝「プチト・アナコ(小さい花子)」(中日出版社)はその生涯を詳らかに伝えている。同書によれば、ハナコ1906年以来、長年にわたってロダンの彫刻のモデルとなり、ロダンやその妻ローズと親交を深めた。

 

ハナコをモデルとしたロダンの作品は約60点にのぼる。その中で国立西洋美術館に所蔵されている頭像は、激しい苦悶の表情を浮かべていて、見る者に強烈な印象を与える。それはハナコが舞台で演じた女性の死にぎわの表情であり、片目を寄せる歌舞伎の睨みを取り入れたものだった。ロダンハナコの舞台でその悶死の表情に激しい感銘を受け、モデルになってくれるよう熱望したのである。

「プチト・アナコ」には欧州でのハナコの写真が数多く収められているが、結構愛嬌があって、舞台で人気を博したのもうなずける。せっかくならロダンにはもっと美しく作ってもらいたかったところだ。

 

ハナコが初めてロダンのモデルになったのは38歳のときだった。小説とは異なり、当初からヌードになったわけではなく、ロダン夫人からの度重なる懇請に根負けして裸のモデルもつとめた。

小説の最後でロダンハナコの裸体を美しいと讃えるのは、ポール・グセルが書きとめたロダンの言葉を引用したものである。

 

小説では「久保田某」という医学士がロダン邸に同行したことになっているが、実際に同行したのはハナコ一座の興行主だったアメリカ人女性ロイ・フラーだった。ただし、この医学士には実在したモデルが存在する。

1905年に東京帝国大学医科大学医学科を首席で卒業し、文部省の命によりフランスに留学していた大久保榮である。その短い生涯については詳しいホームページがある(知られざる日本の俊才 大久保榮)。大久保榮は鷗外の書生だった人物で、鷗外の姪の結婚相手として見込まれていたが、1910年6月11日、パリのパスツール研究所に留学中に腸チフスにかかって31歳で客死した。

小説「花子」が三田文学に発表されたのは、その死から間もない7月1日である。文部省留学生だったから在外公館経由の電信で死亡の知らせは早々にもたらされたと思われる。亡くなったばかりの近しい者をモデルとして登場させた小説を発表したことに引っかかりを感じるが、鷗外は自ら信じる美・芸術・文芸の永遠性にはなむけの思いを重ねたのかもしれない。

 

ハナコこと太田ひさは、明治元年(1868年)、尾張国中島郡上祖父江村(現在の愛知県一宮市)の裕福な旧家の長女として誕生した。後に養子に出されたが、養家や生家の窮迫が重なり、女芝居一座の子役として巡業に加わった。その後、名古屋で舞妓に出されて芸事を仕込まれ、芸妓となって二十歳前後で身請けされたが、10年後には家を出て横浜へと流れた。

その横浜で、ベルギー人の貿易商がコペンハーゲンで開催される博覧会に出展するため日本人の芸人を集めていると知って申し出て、明治35年(1902年)、34歳でヨーロッパに渡った。ここまででも既に随分と激しい変転にさらされた身の上だったが、ここからいよいよ目くるめく運命に身を委ねることとなる。

 

コペンハーゲン博覧会では日本の芸能や風俗を見せて、大いに欧州の人々の関心を引いた。中でもひさの踊りは大人気だった。ひさは、他の仲間達が日本に帰ることばかり考えていたのと違って、舞台がはねて招く人があれば気軽に応じたりして欧州での日々を楽しんだ。博覧会が終わるとアントワープに移って、日本から一緒に来た夫婦が始めた日本料理屋を手伝いながら、博覧会で自信を得た踊りで一座を設けて一旗揚げたいと機会を待った。 

 1904年のある日、ドイツ人の興行主が訪ねて来て、デュッセルドルフ博覧会への出演を持ちかけてきた。ひさはこれに応じてデュッセルドルフに渡り、あちらこちらで日本人出演者を集めて、「武士道」と題した斬り合いと切腹を盛り込んだ芝居を演じた。これが大人気で連日の盛況となり、余勢をかってドイツ国内を巡業した上、コンスタンチノープルまで足をのばした。折しも日露戦争のさなかで日本や日本人に対する関心が高く、どこでも大評判で劇場も割れんばかりの大入りになったという。 

さらに一座はイギリスに渡って独立興行を敢行した。不慣れな経営に苦労したが劇評家には好評で、喜劇仕立ての出し物で大当たりをとり、翌1905年にはロンドンの一流劇場であるサヴォイ劇場に出演するに至った。貞奴を擁する川上音二郎一座がロンドンやパリで人気を博してから5年後のことだった。 

 

サヴォイ劇場での公演でひさは、モダンダンスのパイオニアでもあり著名な興行主だったフラーの目にとまる。かつて川上一座を欧州演劇界に紹介したのはこのフラーだった。フラーは自伝の中で舞台上のひさについて「上品で優雅な目立った個性」、「たおやかなる女優」、「インテリジェンスに満ちた演技」、「容姿は端麗で愛らしい顔立ちをしており、ちょっと日本人離れしていた」と記した。

フラーは一座にひさを主役として押し出すことを提案し、ひさの芸名を「ハナコ」とした。そしてハナコ一座はデンマークスウェーデン、ドイツ、オーストリア、ベルギー、フランスを巡業した。 

 

1906年の春、マルセイユで開催された博覧会で舞台に立った時、たまたま観劇に立ち寄ったロダンハナコの舞台に衝撃を受けた。このときの演目は「左甚五郎の京人形」と「芸者の仇討ち」だった。その「芸者の仇討ち」でハナコが演じる芸者が自害するときの寄り目で表現する断末魔の表情に彫刻家の眼はくぎ付けになった。ロダンは楽屋にハナコを訪ね、パリに来たら訪ねて来てほしいと伝えた。

 

ハナコはこの年、一座の交渉業務を担っていた吉川馨という人物と結婚する。吉川は米国の大学を出ていて英独仏の会話ができた。

その後のパリの公演では、フラー演出によるハナコが派手に血を噴く女ハラキリが大うけとなった。

ハナコがフラーとともにロダンの邸宅を訪ねたのはこの頃のことだった。以後、ハナコは欧米各地での公演の合間にはロダン邸に滞在するという親密な関係を続け、ロダンは身長140センチメートルに満たない小柄なハナコを「小さいハナコ」(Petite Hanako)と呼んでまるで自分の本当の子供のように接した。

ハナコロダン邸で過ごした日々を次のように振り返っている。

「パリに滞在しているときは、日中はたいてい先生の御宅で過ごしました。先生のごひいきの紹介でフランスの有名な美術家や貴婦人、高名な政治家にお目にかかることができて、それからそれへとお招きに預かりまして、パリの花のような貴婦人の生活を知り、夢のように華やかな日々を送ることができました。」

 

フラーとの契約が終了した後も、次々に他の興行主との契約が成立し、フランス、ドイツ、オーストリア、スイス、ブルガリアハンガリー、ロシア、イタリアの各地で公演し、1907年と1909年にはアメリカ興行も行なった。

オーストリアでは、フランツ・ヨーゼフ皇帝臨席の下で舞台をつとめたり、ワインやタバコにハナコの名が冠されるという栄誉にも浴した。

ロシアでは、親しくなったモスクワの伯爵令嬢の援助を得て、南ロシア、小アジアコーカサス地方への独立興行も行ったほか、チェーホフ夫人やロシア演劇界を代表する俳優・演出家だったスタニスラフスキーとも親しく交流し、モスクワ芸術座の俳優学校で日本独自の演技法を実演して見せたりもした。

 

女優マダム・ハナコの名声はロンドンの名士録「フーズ・フー」にも掲載されるほどだった。外国情報を通じて次第に日本にもハナコの活躍が伝わりはじめたが、貞奴と違って日本では公演を行わなかったため一般には知られなかった。

鷗外は芸妓上がりの貞奴ハナコの芸をまともなものとは考えておらず、小山内薫はロシアでスタニスラフスキーから2人について尋ねられたとき恥ずかしさのあまり赤面したと記した。しかし、観客の好評を博した事実は否定しようがない。

 

1910年、ハナコは肺結核を患った夫(吉川馨)を亡くしたが、その後も欧州全域での巡業は続いた。

1914年、第一次世界大戦が勃発したため戦火を避けてロダン夫妻とともにロンドンへ渡った。そのロンドンでも劇場公演に出演し一流各紙の劇評で賞賛された。

 

ハナコたちの芝居は日本語で演じられていたのであるが、それらの劇評からは観客の鑑賞に全く支障がなかったことがわかる。劇評の例をあげれば以下のとおりである。

「最初のうちは彼女は奇異に感じられる。ほっそりした小柄な女性であるが、すぐに彼女は観客を魅了してしまう。この日本の役者たちの演技は、娯楽を超えたものである。それは素朴なものの持つ力の開示である。我々を考えこませるものがある。」

「彼女の才能とユーモアの感覚は最高のものだ。表情と仕草の一つ一つが言葉を持っているようだ。彼女は正しい喜劇の精神を持っている。本質的なユーモアが生き生きと躍動している。」

ハナコの最盛期であった。

 

1916年(大正5年)、ロンドンの劇場からの依頼で踊り子を探すため、日本に一時帰国する。

1917年、イギリスに戻るが戦争の激化もあって舞台をあきらめ、ロンドンで日本料理屋を開いて女将となった。店は大いに繁盛したという。この年11月、ロダンが亡くなった。

1921年(大正10年)、53歳で帰国し、妹の経営する岐阜の芸妓置屋に身を寄せた。その後、甥を養子とし、孫娘にも恵まれた。

1945年(昭和20年)4月、76歳で華麗な思い出に満ちた生涯を閉じた。

 

まことにあっぱれな人生と言うべきだろう。晩年の24年間は退屈だったのではないかと余計なことが気になるが、ひさの人生の断片から垣間見える軽やかで前向きな姿勢からすると、静かな余生も楽しんで生きたのではないだろうか。