多摩川通信

昭和・平成の思い出など

イスラエル建国の正当性を巡って

  

古代、パレスチナはエジプトが支配する地域だったが、紀元前1021年、パレスチナの地にユダヤ人のイスラエル王国が誕生した。後に一部地域がユダ王国として分離し、イスラエル王国は紀元前722年にアッシリアに滅ぼされ、ユダ王国は紀元前587年にバビロニアに滅ぼされた。その後パレスチナローマ帝国の属州となったが、紀元後1世紀~2世紀にユダヤ人の反乱に手を焼いたローマ帝国ユダヤ教の根絶を図ったことからユダヤ人の離散が進んだとされる。さらにアラブ人による征服など幾多の変遷を経て、16世紀以降、パレスチナオスマン帝国支配下に置かれた。

 

近代以降のパレスチナ史を「アラブとイスラエル  パレスチナ問題の構図」高橋和夫講談社現代新書)に拠って概観すると次のとおりである。

第一次世界大戦が始まった1914年におけるパレスチナの人口構成は、アラブ人70万人、ユダヤ人8万5千人だった。この大戦でオスマン帝国が敗れた後、パレスチナは英国委任統治領となった。

1930年代には、シオニズムの高まりとナチスによるユダヤ人迫害によって、25万人のユダヤ人がパレスチナに流れ込み、アラブ人との対立が先鋭化した。

第二次世界大戦終結後、ユダヤとアラブの対立が激化して治安を維持できなくなった英国は、パレスチナ国際連合に委ねて撤退することを表明した。

1947年、国連総会でパレスチナ分割決議が採択された。その内容はパレスチナをアラブ地区、ユダヤ地区、国際管理地区に分割するものだったが、その時点のユダヤ人所有地はパレスチナ全土の7パーセントにすぎなかったにもかかわらず、57パーセントをユダヤ地区に割り当てるものだった。

 1948年5月、英国軍がパレスチナから撤退すると、直後に人口65万人のユダヤ人はイスラエルの建国を宣言した。これに対し、周辺アラブ諸国はただちにパレスチナに進撃した。第一次中東戦争の勃発である。

1949年、停戦が成立した時、イスラエルパレスチナの77パーセントを支配下に置いていた。一方、ガザ地区はエジプトが押さえ、エルサレム旧市街を含むヨルダン川西岸地区はヨルダンが制圧した。この戦争で70万人のパレスチナ人が難民となってヨルダン、レバノン、シリア、エジプトなどへ逃れた。

 

現在、イスラエルの人口は934万人(2021年)、ガザ地区ヨルダン川西岸地区パレスチナ人は497万人(2019年)である。周辺諸国流入したパレスチナ難民は、70年以上の時を経て世代を重ね、今や560万人という世界最大の難民となっている。

 

 

国連でパレスチナ分割決議が可決された当時は、 ナチス・ドイツによるホロコーストの衝撃が生々しく残っており、ユダヤ人の行く末に国際社会の同情が集まっていた。欧州から600万人とも言われる最大のユダヤ人移民を受け入れていた米国の意向も大きく働いた。

故国を追放されて以来たえざる苦難を被ってきたというユダヤ人が父祖の地に帰ることを、欧米主要国が後押しした背景には帝国主義時代の傲慢の名残りもあった。

現代の目で見れば、パレスチナで2千年近くにわたって暮らしてきた現地住民を、もっと古くには自分たちの祖先の土地だったからと追いやったことに、正当性を見出すことができるのだろうかという疑問から目を逸らすことは容易ではない。

 

 

2008年にイスラエルで出版された「ユダヤ人の起源  歴史はどのように創作されたのか」(シュロモー・サンド)は、まさに1948年のイスラエル建国の正当性を根底から揺さぶるものだった。著者はユダヤ人のテルアビブ大学名誉教授(現代ヨーロッパ史)である。この勇気ある問題提起の書は、イスラエル国内でセンセーショナルな議論を巻き起こし、世界各国でも注目を集めた。

その内容は大きく言えば2点である。ひとつは、ユダヤ民族がパレスチナから意に反して追われたという事実はなかったということ。もうひとつは、現在のイスラエル国民の大多数を占める東欧系ユダヤ人の祖先はパレスチナとは縁もゆかりもない民族だった可能性があるということである。実はいずれも歴史学者の間では古くから知られていたことだという。

これはイスラエル人からすれば、今さら到底受け入れることのできない話だろう。本書は当然激しい反論に晒された。何度かのDNA分析も行なわれたが、発表された分析結果が慌てて訂正されるなどして結論がはっきりしない。現時点での論争の着地点をネットで探してみても、いまだ明確な決着には至っていないようだ。

 

 

まず、前者の点であるが、「パレスチナを追放されて以来、世界中をさまよいながら父祖の地への帰還を目指して努力してきた」ということは、ユダヤ人のアイディンティティの根幹をなすとともに、イスラエル建国宣言にも盛り込まれた主要な観念であるが、そのような「追放」が歴史上の事実として存在したことを示すいかなる痕跡もないと著者は言う。ローマ帝国は膨大な記録を残したが、ユダヤ人の追放に関する記述は全く存在しないのだそうだ。ユダヤ人の歴史学者たちは早くからそのことを認識していたという。

碑文記録などの考古学上の発見により、紀元前3世紀頃には既にユダヤ人共同体の中心は隣国エジプトに移っていて、特にアレクサンドリアやローマといった大都市への移民が進んだことがわかっている。それは、アレクサンドロス大王の東方遠征によって出現した広大なヘレニズム世界の発展に伴うものであり、そのようなユダヤ人移民は商人や知識人、傭兵が多かった。

他方、パレスチナに残ったユダヤ人は大地に執着する農民が多かった。それらの農民は、後にアラブ人の支配を受けたとき、こぞってイスラム教に改宗した。異教徒は納税の義務を負わされたためである。このため、20世紀初め、シオニストによる植民活動が始まった時期においては、パレスチナ住民の多くは実は古代ユダヤ人の子孫だという見方が広く共有されていたという。

 

次に、現在のイスラエル人の大部分を占める東欧系ユダヤ人の出自を巡る問題である。

ホロコーストを生き延びたユダヤ人のほとんどは東欧出身だった。東欧のユダヤ人はドイツ系という意味で「アシュケナージ」と呼ばれたが、ドイツからヨーロッパ大陸東部への大規模なユダヤ人移住があったことを示す歴史的証拠は全くないという。では東欧のユダヤ人はいったいどこから来たのか。

この謎を解く鍵として注目されたのが「ハザール帝国」である。この国は7世紀から10世紀にかけてボルガ川から北カフカスまでの広大な草原地帯に勢力を張り、発展した社会を形成したが、13世紀に歴史から姿を消した。その実態については不明な点が多いが、アラブ、ペルシャ、ビザンティン、ロシア、アルメニア、中国などでその存在を示す文書が発見され研究が進んでいる。

それらの文書の中にハザール帝国がユダヤ教に改宗したことを記したものがいくつかある。改宗の経緯や詳細を記したものは発見されていないが、東欧におけるユダヤ人の異常な人口増加の要因を説明する根拠となり得るものとして注目された。ハザール帝国について先駆的な研究を行ったイスラエルの著名な歴史学者は、東欧のユダヤ人の大半がハザール帝国の出身者だったと考えていたという。

 

 

イスラエル人が建国の正当性の淵源としてすがってきた「追放」神話に根拠がなく、古代ユダヤ人は自らの意思で諸国に移民として散って行ったのだとしたら、また、イスラエル建国時に追い出したパレスチナ人こそ本来のユダヤ人の末裔に他ならないとしたら、いったい今のパレスチナの状況をどう捉えたらいいのだろう。

まして、東欧から移住したユダヤ人というのは、実はパレスチナの古代ユダヤ人とは無関係の民族であるとしたら、自らそうと知らずに本来の末裔であるかもしれないパレスチナ人をその父祖の地から追放してしまったことは、まことに悲劇的な恐ろしい顛末ではないか。