アマゾン川はアンデス山脈北部に源流を発し、ブラジル北部を横断して大西洋まで流れ渡る。多くの支流を擁し、本支流を合わせた流域面積はオーストラリア大陸に匹敵する。ブラジル国内の流域面積は国土の6割を占める。
アマゾンの産物で最初に国際市場に登場したのは天然ゴムである。アマゾン原産のゴムの木(ヘベア樹)から採れる樹脂は天然ゴムの原料として最も良質だった。そのためブラジル政府はゴムの木の種子を国外に持ち出すことを禁じていたが、1876年、英国がその種子を入手し(違法に)、東南アジアの植民地で大規模栽培を始めた。19世紀末、タイヤの発明によりゴムの需要が一気に膨らんだとき、英国は天然ゴムの国際市場を独占した。
これに危機感を抱いたのが米国の自動車王ヘンリー・フォードである。ゴムの独占は自動車産業の行方を左右しかねない。フォードは1928年、アマゾン流域でゴムの木のプランテーション事業に着手した。それは街づくりを含めた壮大なプロジェクトだったのだが、原産地なのに肝心のゴムの木が育たず、1945年、空しく撤退した。
桁違いの豊饒さを固く内に秘めたアマゾンは文明を拒み続けるかのようだった。だが、長年にわたる辛苦の果て、ついにその豊饒の扉を開けることに成功した集団があった。戦前の日本人入植者たちである。その成功とは「胡椒」と「黄麻」の移植であり、今日に至るまでブラジルに多大な利益をもたらし続けている。「アマゾンの歌 日本人の記録」(角田房子/中公文庫)は、日本人入植者たちが経験した過酷な日々と奇跡の達成を今日に伝えている。
1.東南アジア種の胡椒の移植
発端は1925年(大正14年)、アマゾン東部パラー州の知事がアマゾン開拓のため日本人入植者に50万ヘクタールの州有地を無償で譲渡したいと申し出たことだった。知事はブラジル南部で示された日本人移民たちの勤勉さを高く評価していた。
日本政府はこの申し出に飛びついた。その頃の日本は大戦景気の反動で長い不景気に陥っており失業対策として海外への移民を奨励していた。加えて北米における日本人移民に対する排斥感情の高まりが南米にも及びつつあり、情勢の悪化を避けるため、サンパウロ州を中心として南部に集中していた移民の流れを北部へ振り向けたいという思惑もあった。
このため政府が主導し、当時隆盛を極めていた鐘淵紡績株式会社(後のカネボウ)にプロジェクトを預ける形でパラー州への集団入植が進められたのである。
入植は1929年(昭和4年)から1937年(昭和12年)まで22回にわたって実施され、375家族と単身41人の総計2104人が入植した。だが、アマゾンの現実は過酷だった。その過酷さは退耕者77%(1621人)という記録に如実に現れている。
入植者たちは鐘淵紡績の事前調査により適性作物と見込まれたカカオの栽培を目指した。自ら原生林を伐採して耕地を拓くことから始めなければならなかった。道具は斧のみである。現地人の補助者がついたが気の遠くなるような作業である。家も自ら建てなければならなかった。
カカオは期待に反して思うように育たなかった。ついに最後まで育たなかったのである。入植者たちは陸稲を蒔いて凌いだが、ブラジルでは米の需要が小さく収入には限りがあった。野菜が多少収入を補ったが、ブラジル人は野菜を食べる習慣がなかったため、協同組合を作って行商しながら野菜の食べ方を教えるところから始めなければならなかった。
入植者たちの暮しは窮迫していった。上記「アマゾンの歌」によれば衣服にもこと欠くようになり、他人の家を訪ねるときは家の外で歌を一節歌って女性たちに何か身に着ける間を与えたものだという。
マラリアにも苦しめられた。蚊を媒介とする風土病で高熱が出る。特効薬のキニーネがあったが、何度もマラリアにかかるうちにキニーネが腎機能障害を誘発して亡くなる者が相次いだ。
1935年(昭和10年)、鐘淵紡績は開拓事業からの撤退を決め、入植者たちだけが残った。試験農場も閉鎖されることになったが、たった2本だけ育っていた東南アジア種の胡椒の若木があった。2人の入植者がそれを1本ずつ譲り受け、試行錯誤しながら少しづつ増やしていった。アマゾン在来種の胡椒は実が少なく売り物にならなかったのに対し東南アジアの胡椒は国際商品だった。
曙光が差したのは戦後である。東南アジアの胡椒産地が戦火で壊滅して胡椒が高騰したとき、入植者たちは胡椒の栽培に賭けた。入植地の胡椒の生産量は急増した。売上高は1947年(昭和22年)からの8年間で実に300倍に達し、胡椒は「アマゾンの黒ダイヤ」と呼ばれるようになった。入植者たちの家は掘っ立て小屋から豪邸に変わっていった。
現在、ブラジルの胡椒生産量は世界第2位であり、日本人の入植によって発展したパラー州トメアスは胡椒の主要産地となっている。
2.黄麻(ジュート)の移植
1926年(大正15年)、パラー州の西に隣接するアマゾナス州の知事も日本人入植者に州有地100万ヘクタールを無償譲渡したいと申し出た。これに応じて入植事業に乗り出したのが上塚司だった。この時期を挟んで衆議院議員を7期務めた人物である。
上塚は日本高等拓殖学校を設立して入植者の育成を進め、1931年(昭和6年)から1937年(昭和12年)まで一般入植者を含む398人が入植した。
目指したのは黄麻(こうま)の栽培である。黄麻から採れる繊維(ジュート)は用途が広く、栽培期間が4か月程度と短いため収益率が高い。特にブラジルでは大豆やコーヒー豆などの袋の素材として需要が大きかったが、自国では黄麻が育たず輸入に頼っていた。
インド産黄麻などの試験栽培を続けたが、思うように育たず若者たちの心は荒んでいった。ついにはほとんどの入植者が黄麻の栽培を投げ出してしまった。
1934年、2人の一般入植者が5本の異質な黄麻を見つけた。その5本は他と異なりどんどんと伸びた。だが、不運にも3本は牛に踏みにじられ、1本は豪雨の浸水で倒れた。残りの1本も水につかったがなおも伸び続けた。この最後の1本から12粒の種が採れた。そのうちの10粒が発芽して十分な丈に成長した。この10本から相当量の種が採れて試作地に蒔かれた。
1936年、ついにジュートの採取に成功し、そのほとんどが1級品として買い上げられた。入植者全員が黄麻の大規模栽培に乗り出した。
日本人移民が黄麻の栽培に成功したというニュースはブラジル全土で大反響を呼び、1940年にはバルガス大統領が日本人入植地を訪れた。しかし、戦後、同大統領が失脚し、入植地の事業拡大のための融資が取り消されたことから勢いを失い、ジュート事業はブラジル人の手に移って行った。
3.コンデ・コマの貢献
ところで、日本人のアマゾン入植のきっかけとなったパラー州知事の申し出だが、「不敗の格闘王 前田光世伝」(神山典士/祥伝社黄金文庫)によれば、その背後にひとりの柔道家の存在があった。それが前田光世(みつよ)である。
嘉納治五郎は柔道の国際的な普及を図るため有力な門人たちを諸国に派遣した。前田もそのひとりとして1904年(明治37年)、26歳で米国に渡った。以後、欧米から中南米にかけて諸国を巡って柔道の普及に努めた。なじみのない格闘技に関心を向けさせるには実際に闘って見せるのが最も効果的である。ということで講演と実演に加えて、各地で力自慢たちと公開勝負を行った。その結果は2千勝無敗だったと言われている。
欧米人に比べて遙かに小柄だったのになぜそんなに強かったのか。それは嘉納が柔道に十分に取り込むことができなかった古来の柔術の締め技と関節技を多用したことによる。その有効性は、近年、グレイシー柔術が世界の異種格闘技戦で頂点に立ったことに鮮やかに現れている。グレーシー柔術の創始者はブラジルにおける前田の門弟である。
前田は1914年にブラジルに至り、晩年にはブラジル国籍を取得してパラー州の州都ベレンに居を定め、1941年、ベレンで没した。柔道とその人柄で日本人のみならずブラジル人各層に広く親しまれていたため、葬送は長大な列になったという。ブラジルの新聞は「日本人移民のリーダーだった」と称えた。
前記「前田光世伝」には、鐘紡のアマゾン責任者の回想として、前田が「アマゾンこそ日本人移民の最適地と考えて、州知事と相談の上で日本人移民のための土地のことを大使に相談したのです」と語ったことが記されている。日本人のアマゾン入植のそもそもの起点は前田だった可能性が高い。前田は入植者たちを鼓舞し続け、志半ばで退耕した者たちには仕事を世話するなど親身になって支援したという。
ちなみに、前田はブラジルで「コンデ・コマ」と名乗った。同書によれば、1908年、スペインでの公開勝負で仮名を用いる必要が生じたが妙案が浮かばず”困った”ため「コマ」にしようとしたところ、スペイン人から「コマ」だけでは調子が悪いから「コンデ」(スペイン語で伯爵)を付けたらどうかと言われ、リングネーム「コンデ・コマ」が誕生した。以後、コンデ・コマが前田の通り名となり、ブラジルではほとんど本名となった。まことに明治人というのは破天荒でスケールが大きい。