多摩川通信

昭和・平成の思い出など

対米開戦の責任を問う

 

1931年(昭和6年)の満州事変から太平洋戦争へと至る歴史の中でどうにも理解に苦しむのは、陸海軍がともに勝ち目がないと考えていたはずの米国との戦争に、なぜ踏み切ってしまったのかという点だ。

戦後、陸軍と海軍はそれぞれに有志が集まって反省会を行った。陸軍の反省会の内容は、財団法人偕行社の機関誌「偕行」に、1976年(昭和51年)から1978年(昭和53年)にかけて「大東亜戦争の開戦の経緯」として15回にわたって掲載された。

海軍の反省会は1980年(昭和55年)から1991年(平成3年)まで131回にわたって開催され、その400時間に及ぶ録音テープが残されていた。

 

そのそれぞれの反省会の概要を記した「なぜ必敗の戦争を始めたのか 陸軍エリート将校反省会議」(半藤一利 編・解説/文春新書)と「日本海軍400時間の証言 軍令部・参謀たちが語った敗戦」(NHKスペシャル取材班/新潮社)を読んでみた。

両書に記されている反省会の証言からは、陸海軍ともに本音では米国と戦争できる国力はないと認識しながら、開戦への歩みを止められなかったことがわかる。その証言のいくつかを以下に抜き出してみる。


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<「なぜ必敗の戦争を始めたのか」から>

「海軍は物的武力判断なんていうのは全然やっていません。近衛内閣がつぶれるころになってやっているといいますが、陸軍は3カ月かかって詳細周到な国力判断をやった。その結果、南進問題解決はやめようとなった」(原四郎 元中佐・大本営参謀)

 

「昭和16年度の鉄の生産量は546万トンです。ですから中原さんの言われる軍事課の判断は少し過低評価しているような私の印象なんです」(原)

「原君、そんなに出てないんだ。水増しなんだ。陸海軍の話を合わせるためには水増ししなければ話が合わないんだ」(中原茂敏 元大佐・陸軍省軍務局軍事課)

 

「短期決戦論という論議もありましたけれども、戦争を始める段階では、統帥部も陸軍省も政府諸機関も長期戦争になるであろう、少なくとも数年にわたる大持久戦争になるであろうということであって、その結果、勝つとは見通してないんですよ。大持久戦争になった段階において、物もこういうように入り、戦争継続は可能であろうという結論で、それならひとつ、このまま手を上げるよりは戦争に踏み切った方がいいのではないだろうか、ということになったと思います」(高山信武 元大佐・参謀本部作戦班)

 

「当時は軍事課の立場で「あれほど言うたのに」という気持ちは今しますか?」(加登川幸太郎 元中佐・陸軍省軍務局予算班)

「それは大いにするね。私も作戦会議に兼任させられて、ときどき引っ張られたけれども、ズラーッと並んでおって、たった一人で「鉄がない」とか言えないですよ。当時の雰囲気は本当に言えないんだ。岩畔豪雄さん(軍事課長)がアメリカから帰ってきて「駄目だこれは。こんなことでは出来っこない」と3回しゃべったら、すぐ第一線へやられたでしょ。しかし、言えるだけは言ったですよ。岡田戦備課長も国力判断をなすって「これはえらいことになるぞ。国力が半分になっちゃうぞ。だけど最終決心は統帥のおやりになることだ」ということから可能性のようなことも最後に付け加えられるもんだから、それがまた国力があるようになっちゃう。実際はないんだよ」(中原)



<「日本海軍400時間の証言」から>

「嶋田海軍大臣は、もし自分が対米開戦に反対すれば陸軍が内乱を起こすと言うんですよ。嶋田大臣がね、もう戦争には自信がないと。あんまり自信がないということを言うものだから、それなら海軍を辞めちまえって言って怒られたのを覚えてます」(保科善四郎 元中将・海軍省兵備局長)

 

「私が軍令部におる間、感じておったことはですな、海軍が「アメリカと戦えない」というようなことを言ったことがですね陸軍の耳に入ると、それを利用されてしまうと。海軍は今まで軍備拡張のためにずいぶん予算を使ったじゃないかと。それでおりながら戦えないと言うならば、予算を削っちまえと。その分を陸軍によこせと。だから、負けるとか何とか、戦えないというようなことは一切言わないと。こういうことなんですな」(三代一就 元大佐・軍令部作戦課参謀)

 

「昭和16年の10月末、軍令部で図上演習をやったんですね。船がどれぐらい沈むかということを企画院から言われて。やってみたところが、ぼろぼろと沈んでね。こんなことじゃ成り立たないと。ところが軍令部作戦課が強引に戦力判定を変えた。それでちゃんと数字が合っちゃうんです」(大井篤 元大佐・海上護衛総司令部参謀)

 

「私が兵備局長をやらされて調べてみるとね、出師準備なんていうのはまるで夢みたいなものなんだ。作文はできておったんです。計画が。まるで使うことができないような兵器まで載せているわけだ。帳面を合わせるために」(保科)

 

「あなたは戦争に勝つと思ったですか」(大井)

「それは分からないですよ。勝つつもりでやってるわけですよ。開戦はね、不可避という状況だったんですね」(佐薙毅 元大佐・軍令部第1部第1課作戦班長

「この戦はやってはいけないとみんな言い合っておりましたよ、海軍では」(大井)

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こんなあり様でどうして対米開戦という結論に至ったのだろうか。合理的な判断を放棄したものとしか思えない。他方、当時の状況が当局者にとってなかなかに厳しいものであったことは事実である。

「日本人はなぜ戦争へと向かったのか」(NHKスペシャル取材班 編著/新潮文庫)の三部作(①外交・陸軍編、②メディアと民衆・指導者編、③果てしなき戦線拡大編)は、当時の当局者が直面した困難がどういうものだったのかを明らかにしていて考えさせられる。

 

しかし、対米開戦は、実は「ひと言」で回避できたのである。なぜなら、政府と陸海軍の指導者たちが皆、開戦を前にして腰砕けになってしまっていて、他の誰かがその「ひと言」を言い出すことを切望していたからだ。彼らは皆、対米開戦が日本を破滅に導くことを明確に認識しており、恥も外聞もなく歎願しあったのである。この点について上記「日本人はなぜ戦争へと向かったのか」(メディアと民衆・指導者編)に記されている以下の事実は衝撃的だ。

 

1941年(昭和16年)10月初旬、陸軍省軍務局長の武藤章は、富田内閣書記官長と面会した際、同席した海軍省軍務局の柴勝男に「お前のところで戦争できんと言ってくれ、そうしたら陸軍は何とか収めるから」と頼み込んだ。柴は「ずるいじゃないかと。これは総理大臣たる近衛さんの責任だと。近衛さんが決めるべきだと」反論したという。

 

企画院総裁だった鈴木貞一の証言も生々しい。「夜になって、ふたりして僕の家にやってきたんですよ。海軍大臣の及川、それと外務大臣をやっておった豊田(海軍大将)です。何しに来たかと思うと、結局「企画院総裁が御前会議の前に、戦争は絶対にできませんということを陛下に内奏してもらいたい。海軍は戦ができない、やりたくないんだ」と。僕は言ったんですよ。「そんなこと言うのはちょっとできません」って。それよりも、海軍大臣がはっきりしたことをおっしゃらなければいけないと」

 

そして、ついに運命の日に至る。上記「メディアと民衆・指導者編」によれば、同年10月12日、近衛首相は、陸軍大臣東条英機海軍大臣及川古志郎、外務大臣豊田貞次郎、企画院総裁鈴木貞一を私邸に呼んだ。対米開戦の回避に道をつけるつもりだった。実は、この直前、近衛は及川海相に戦争回避の意向を確認していたという。しかし、会談では及川はその意向を明言せず、決定を近衛に一任すると言った。議論は4時間に及んだが、5人の誰もが喉元まで出かかっていた「開戦回避」のひと言を発することができないまま最後のチャンスが消えた。その4日後、近衛内閣は総辞職し、日本は太平洋戦争へと流されていった。

 

近衞邸で会談した5人のいずれもが「開戦回避」を主張すべき立場にあった。誰か一人がそのたったひと言を発していたら、他の4人はいじましくもホッとして回避支持に回っただろう。当時の日本の状況はそのような発言が許されるようなものではなかったのだという見方もあるだろう。だが、これは決定的な時機において指導者が発揮すべき真の勇気の問題だ。そのことを我々はウクライナ戦争で目の当たりにしたではないか。

ロシア軍のキーウ侵攻に際して、米英軍から退避を促がされたにもかかわらず、ゼレンスキーは命をかけて首都にとどまった。誰も予想しなかった形で今日までウクライナが持ちこたえているのは、ひとえにゼレンスキーが示したこの一片の勇気による。

82年前、日本の当局者たちがたったひと言を発する勇気を欠いたがために、300万人に及ぶ国民の命が失われる結果をもたらした歴史を噛みしめたい。