多摩川通信

昭和・平成の思い出など

伊藤博文のVサイン

 

明治20年(1887年)4月20日午後9時、鹿鳴館時代のクライマックスとして歴史に刻まれた仮装舞踏会が幕を開けた。時事新報は「内外朝野の貴顕紳士及び其夫人等の参集はほとんど四百余名近き多人数なりし」と報じた。浅田真央のスケートで耳に残るハチャトリアンの「仮面舞踏会」のワルツがよみがえり、華やかなときめきに満ちたであろう舞踏会のにぎわいが目に浮かぶ。

 

記事は続けて「紅顔玉を欺くの淑女顕はるるかと見れば、忽ちにして勇壮鬼を挫く猛獣躍り出で」と記す。その場面を「ウィーンに六段の調 戸田極子とブラームス」(萩谷由喜子中央公論社)は、「宴のたけなわ、笑いさざめく貴顕、淑女たちの前に突然、どこからともなく着ぐるみの大きな熊が現れ、誰かれの別なく襲い掛かって大混乱となったとき、山吹の乙女に扮した極子がしとやかに現れて苦もなくその大熊を取り押さえるという一幕も演じられ、会場はやんやの大喝采に包まれた」と記す。宴は翌朝4時まで続いた。

 

極子(きわこ)とは旧大垣藩主戸田伯爵の令夫人である。岩倉具視の娘だが父親に似ず上品な顔立ちで、すらりとした立ち姿は洋装がよく似合い、外国人と堂々と英語で会話しながら臆することなくダンスをこなす様子は、美貌で知られた陸奥宗光夫人の陸奥亮子(りょうこ)とともに鹿鳴館の華と謳れた。

極子が扮したという「山吹の乙女」は、江戸城を築城した戦国武将太田道灌の伝説を踏まえたものだった。その伝説について上記「ウィーンに六段の調」は次のように記す。「狩りに出てにわか雨に遭った道灌が蓑を借りようとしたところ、その蓑がないことを伝えるために『七重八重 花は咲けども山吹の 実の(蓑)ひとつだに なきぞ悲しき』との和歌を添えて山吹の花を捧げたという、あの村娘である」

 

夫君戸田伯爵が太田道灌に扮し、極子は村娘の衣装で山吹の花を捧げ持って臨んだのだった。好評を博した寸劇のヒロインにふさわしい衣装ではあったのだが、自ずから無防備なその衣服は舞踏会の主催者たる伊藤博文の原始的熱情に火をつけてしまったのである。博文はこのとき46歳だった。

ただごとならぬ噂が新聞各紙の記事で取り沙汰されたのは数日後のことだった。噂が立ったということは、当夜居合わせた人々の中に何やら異変を感じとった者たちがいたのである。夜半過ぎに裸足で息急き切って駆けてきた極子を人力車に乗せたという車夫の証言も報じられた。

 

行き過ぎた想像を掻き立ててはいけないので早めに真相を記しておきたい。後に極子自身が孫に語ったことが孫の手記「遠いうた 徳川伯爵夫人の七十五年」(徳川元子/文春文庫)に次のように記されている。

「好色の名の高かった伊藤博文は、三十歳という女盛りの美しい祖母に眼をつけて、仮装舞踏会が催されたある晩、祖母を一室に誘い、狼藉に及ぼうとしたのでした。祖母は驚いて開いていた窓から飛び降り、はだしのまま庭を駆け抜けて、辻待ちの人力車で逃げ帰ったそうです。この話は醜聞として有名になり、祖母はその生涯大迷惑を蒙りました」

 

窓が開いていたとはいえ、窓枠に上がって庭に降りるまでには数秒の時間を要する。拒絶されたところで後姿をただ見送るような博文ではない。おそらく極子は「何をなさいます、エイ」と博文を力いっぱい押しやったのである。傑物岩倉具視の娘である。それぐらいのことはやっただろう。酔って足元が覚束なくなっていた博文はもんどりうって尻もちをついた。このとき博文はベネチア貴族の衣装だった。勢い余った白タイツの両脚は高々と天井に突き上げられたはずだ。大股開きの両脚は見事なVサインを描いたのである。

諸々の事実を踏まえればこれは単なる空想ではない。Vサインと言えば第二次大戦中にチャーチルが手の指で示したことで有名だが、それより半世紀以上も前に日本の大宰相伊藤博文がはるかに雄大なVサインを示していたのである。それを目にしたのが極子だけだったのはもったいないことだった。そのVサインこそは日本の近代国家への発展に対する確信を表わしたものだったのである。



もとより伊藤博文はただの女好きではない。長きにわたり元老トップとして明治天皇の絶大な信頼を一身に受けて日本が近代国家へと向かう舵取りをした。その功績は、維新の英傑たちの事績に引けを取らない。近代国家の体制を整え、その内実を充実させるための取り組みは、巨大な勢いを制御しなければならなかった回天の事業とはまた別で、精緻な構想力と粘り強い実行力を必要とする事業の数々だった。

その骨の折れる事業を博文は、4次にわたる内閣で首相を務めた他、枢密院議長、貴族院議長、立憲政友会総裁、韓国統監と、32歳で初入閣してから68歳で暗殺されるまで明治政府の要職を務め続けて日本を近代国家へと着実に発展させた。「伊藤博文 近代日本を創った男」(伊藤之雄講談社)を読むと、その事績の大きさにあらためて圧倒されるとともに、日本が伊藤博文という偉人を得た幸運を思わずにはいられない。

 

憲法の制定、不平等条約の改正、日清戦争の勝利、日露戦争の勝利、政党内閣の実現、韓国の近代化の促進など、常に先見性と合理性に貫かれた業績を上げた。その中で、同書を読んでハタと合点がいった点がある。幕末の1858年に幕府が列強(米、蘭、露、英、仏)と締結した安政不平等条約治外法権関税自主権の欠如など)について、一体どのような切り口から条約改正への突破口を開いたのだろうかという疑問だ。同書はこの点について、先行研究の成果を引いて次のように述べている。

「日本の条約交渉相手国のイギリスも、日本の軍事力が強化されてきたことをよく認識していた。1894年1月12日付の外務次官補バーティの覚書によると、日本が現実に条約を廃棄した場合、地域的にみて現行条約の権利を強要できない。日本は清国にほぼ匹敵する海軍を持っている。海岸防衛はほぼ完成しており、陸軍は7万のよく武装された練度の高い軍勢から成っている」というのが英国の認識だったという。

 

当時、日本の衆議院議員の間に、政府の条約改正交渉が遅々として進まないことに痺れを切らし、逆に条約に定められた外国人居留地の制限を厳格に実行して外国人に不便を強いることにより列強を条約改正に向かわせようという声が大きくなっていた。伊藤博文は外相陸奥宗光と図って「政府は条約廃棄も覚悟して条約改正に当たる」という強い姿勢を新聞に掲げた。伊藤らの本心は条約廃棄などという意思はなく、あくまでも国内政治対策として出したメッセージだったのだが、駐日英国公使館は、日本が条約廃棄を視野に入れていると英本国に報じた。

上記のバーティの覚書は公使館からの情報に接して急遽対応を協議した際のものだったと思われる。その内容からは公使館情報が英国を震撼させたことが窺える。日本が一方的に条約を廃棄しても英国には条約を履行させる力がないことが顕わになれば、清国もアヘン戦争とアロー戦争により締結させられた南京条約と天津条約の廃棄に動きかねない。

 

そもそもアヘン戦争にしても、清国は簡単に負けたわけではない。旧式の軍隊であったにもかかわらず2年間にわたって戦い抜いたのである。今や英国の地理的不利は大きかった。香港をはじめとして中国における様々な権益を一気に失うことになれば、大英帝国のあちらこちらで綻びの連鎖が生じる契機となりかねない。英国の方がむしろ日本との条約改正に応じざるを得ない状況に立たされていたのである。

当時、日本側はそのような英国の内部事情を把握していたわけではない。しかし、日本が軍備をはじめとして各方面で着実に近代化を達成してきたことがもたらした成果に他ならなかった。1894年7月16日、日本は不平等条項を排除した新条約を英国と締結した。そして、英国の同意を得て新条約の写しを他の列強に提示することにより、各国との条約改正を進めたのである。

 

よくぞ鎖国の状態からここまで到達したものだと思う。これを主導した伊藤博文はやはり偉大な政治家だったと言わねばならない。女好きという欠点は許してやりたいものだ。だいたい、欠点のない者でなければ首相になれないなどとなったら、なり手は皆無だろう。

今、なかなか経済対策も効かないけれど、こうなると長きにわたる閉塞感を打開するために必要なのは気分転換だ。日本人は初心に帰って明治の気概と勢いと楽天性を取り戻すため、伊藤博文が日本の発展を確信して示した大股開きのVサインを心に思い浮かべてみるべきではないだろうか。