多摩川通信

昭和・平成の思い出など

幕末の日露交渉

 

新装版 落日の宴 勘定奉行川路聖謨(上) (講談社文庫)
 

 

19世紀半ば、極東は覚醒の時を迎えていた。阿片戦争1840年-1842年)で清が英国に屈し、開港と通商の開放を内容とする南京条約が締結されたことをきっかけとして、欧米列強の極東進出が激しさを増した。

 

ロシアは、米国が通商を求めて日本に使節を送るとの情報を得ると、1852年5月、海軍中将プチャーチン使節として日本に派遣することを決めた。

プチャーチンの派遣に当たりロシア皇帝ニコライ1世は、国境確定の協議を足掛かりとして日本から通商の譲歩を引き出すよう命じ、最大の目的は通商であって国境については可能な限り寛大に対処せよとの訓令を与えた。

その訓令書には「クリル諸島の内、ロシアに属する最南端はウルップ島であり、同島をロシア領の南方における終点と述べてかまわない。これにより、今日既に事実上そうであるように、我が方は同島の南端が日本との国境となり、日本側は択捉島の北端が国境となる」と記されていた。

 

1853年8月、プチャーチンは4隻の艦隊を率いて長崎に入港し、長崎奉行に通商を求める国書を提出した。長崎に向かったのは、ロシア政府がドイツに帰国していたシーボルトを招いて意見を聞き、それに基づいて日本の国法を尊重して長崎へ向かうよう指示したためである。

 

幕府はロシアとの応接掛(交渉担当)として筒井政憲川路聖謨(かわじ としあきら)を長崎に派遣した。筒井は南町奉行を長く務めて名奉行と称された思慮深い人物で、このとき75歳だった。交渉を主に担った川路は、身分の低い出自ながら類い稀な有能さを認められて抜擢を受け、勘定奉行などの要職を歴任し、当時52歳だった。(対するプチャーチンはこのとき49歳だった。) 

 

会談の際、ロシア側は艦から椅子を持参し、靴に白い布をかぶせて畳に上がった。対する日本側は畳を2枚重ねて座った。交渉はオランダ語で行われた。日本側の通詞は森山栄之助、ロシア側はプチャーチンの副官ポシェット少佐がオランダ語からロシア語に通訳した。

 

プチャーチンの秘書官で作家だったゴンチャロフは、その著書「日本渡航記」に日本側全権の2人の初見の印象を記している。筒井は「少し腰の曲がった愛想のよい老人だったが、その態度には立派な教養を窺わせるものがあった」と記し、川路については「大きな鳶色の眼をした聡明闊達な顔つきの人物だった」と記している。

 

長崎での会談は6回にわたって行われ、日本側は当初方針どおり開国と通商を引き延ばす姿勢を貫き、プチャーチンは老中宛てに通商開始を含む条約草案を提示して、1854年2月、ひとまず長崎を出航した。

 

一方、米国の使節東インド隊司令官ペリーは、1853年7月、臨戦態勢をとっていきなり浦賀に入港した。武力を誇示しながら江戸湾深く品川沖まで侵入し、数十発の艦砲(空砲)を撃って威嚇した。開国を求める大統領親書を浦賀奉行に渡して一旦去ったが、1854年2月に再度来航し、その強硬な姿勢に米国応接掛が屈して、同年3月、下田と函館の開港を定めた日米和親条約を締結するに至った。

  

プチャーチンは米国が日本と条約を締結したとの情報を得るや、1854年12月、軍艦ディアナ号で下田に入港し、日露間の交渉が再開された。

 

ところが、下田での第1回交渉の翌日(12月23日)、安政東海大地震が発生し、津波に巻き込まれたディアナ号は竜骨が折れ浸水した。修理のため伊豆半島西岸の戸田(へだ)湾に向かう途中、宮島村(現在は静岡県富士市の一部)の沖で嵐に遭遇して航行不能に陥った。浜辺の村人たちの献身的な救助活動により乗組員全員が無事上陸して難を逃れたが、その翌日、ディアナ号は沈没してしまった。

 

条約交渉に加えて、約500名のロシア軍人を、クリミア戦争に参戦してロシアと交戦状態にある英仏の軍艦が往来する中で、どうやって帰国させるかという新たな難題が生じた。プチャーチンからの申し出により、船大工と資材を提供してロシア人の指導により戸田湾で代船を建造することになった。日本初の洋式帆船の建造であり、諸藩から見学者が派遣され、後に各藩での洋式帆船の建造につながった。

 

この間にも交渉は重ねられた。すでに日米和親条約が締結されており、その内容はロシア側も承知していたため国境問題以外はほぼ大枠が固まったが、問題は国境だった。択捉島とウルップ島との間を国境とすることは決まったが、樺太における国境線をどこに引くかが焦点となった。

プチャーチン樺太のほとんどはロシア領だと主張した。これに対し、川路は、50年近く前に間宮林蔵らが樺太全島を踏査したことを述べ、その際、アイヌが定住していることは確認できたがロシア人には一人も出会わなかったと反論し、プチャーチンが黙り込む場面もあった。結局、樺太については国境を定めず従前のままとすることで決着した。

1855年2月、日露の国境、函館・下田・長崎の開港、ロシア領事の駐在、双務的領事裁判権、片務的最恵国待遇などを定めた日露和親条約の締結に至った。

 

条約交渉を通じて川路とプチャーチンはお互いに尊敬の念を深めていた。川路は苦難に動じないプチャーチンの胆力に畏敬の念を抱き、「よほどの者也」と日記に記した。プチャーチンは川路の知性を讃え、「ウィットに富み、教養あるヨーロッパ人と変わらない一流の人物だった」と書き残した。

秘書官ゴンチャロフは「川路は非常に聡明な人だった。巧妙な弁論をもって我々の主張を覆そうとしたが、我々はそれでもこの人物を尊敬しないではいられなかった。その言葉や物腰のすべてが良識と機知、慧眼、老練さを示していた」と記している(「日本渡航記」)。

  

1855年4月、戸田湾で建造が進められた代船が完成し、翌5月、プチャーチンはヘダ号と命名したその船で帰国の途についた。帰国前、プチャーチンは、ディアナ号が沈没した際、日本側が心を尽くして支援してくれたことに感謝し、これまで航海したいずれの国にも見られぬ心遣いで、末代までもこれを伝え、ロシア皇帝にも報告すると語った。

 

1858年7月、プチャーチンは通商の開放を定めた日露修好通商条約の締結を成し遂げ(この時の応接掛は筒井・川路ではない)、ニコライ1世から与えられた使命を果たした。 

この条約は、いわゆる安政の五カ国条約のひとつであるが、他の米・蘭・英・仏との修好通商条約とは異なる点がひとつある。最恵国待遇が他の4カ国との条約では片務的であるのに対し、日露の条約だけは双務的な規定となっている点だ。(領事裁判権日露和親条約の定めを引き継いで双務的とされたが、これは他国とは異なり国境を接している以上当然だろう。)

他の国との条約では双務的でないのは、最恵国待遇について日本側の関心が薄く(あるいは当面の実益がなく)、日本側があえて主張しなかったためだろう。それにもかかわらずロシアとの条約では双務的に規定された背景には、プチャーチンの軍人としての信義による配慮があったのではないかと想像する。

 

副官ポシェットは、1872年(明治5年)、海軍中将となって再来日して函館港に立ち寄った際、日本に返却したヘダ号が廃船となっているのを目にして、心から懐かしんだという。