多摩川通信

昭和・平成の思い出など

シーボルト事件とは何だったのか

 

1829年12月30日、33歳のシーボルトを乗せたオランダ汽船が出島を離れて港口に差し掛かった時、汽船に向かって漕ぎ寄せる一艘の小舟があった。やがて汽船からもボートが降ろされ、小舟へと漕ぎ寄せる。もどかしくもボートを漕ぐのはシーボルトその人である。シーボルトの門人たちが漕ぐ小舟には、シーボルトの妻22歳の滝(たき)がシーボルトとの間に生まれた2歳の娘イネを抱いてうずくまっていた。幕府から国外退去と再入国禁止を申し渡されたシーボルトとの最後の別れをさせるべく門人たちが舟を出したのだった。

シーボルト」(板沢武雄/吉川弘文館)に記されているこの場面は、まるでオペラ「蝶々夫人」の哀切極まるアリアが聞こえてくるかのようである。「評伝シーボルト 日出づる国に魅せられて」(ヴォルフガング・ゲンショレク/講談社)によると、小瀬戸村のあたりで陸に上がったという。別れがたく抱擁しあったであろう3人の姿が目に浮かぶ。

シーボルトは6年前に滝を妻として迎え入れたとき、母親への手紙で「結婚した」と知らせていたのだが、2人を連れて帰国することは難しかっただろう。それでも、ちゃんと「結婚」したことにしたのはえらかった。シーボルトの人柄を偲ばせるものがある。3人が再会を果たしたのは国禁が解かれた30年後のことで、シーボルトも滝も既に再婚していた。

 

シーボルトはなぜ国外退去に処せられたのだろうか。禁制品である日本地図を持ち出そうとしたというような話が思い起こされるが、「文政十一年のスパイ合戦 検証・謎のシーボルト事件」(秦新二/文春文庫)を読んで視界ががらりと変わった。本書は小説を思わせるようなタイトルのイメージとは異なり、オランダ語の原資料を読み込むことによって得られた数多くの新発見を踏まえて「シーボルト事件」を再検証し、その背後にあった真相を浮かび上がらせようとした秀逸な論考である。何よりオランダやインドネシア、ドイツに散在しているシーボルトの各種コレクションや著作、日誌、手紙などの記録から発掘された数々の事実そのものの迫力が尋常でない。

 

シーボルトはオランダ商館の医師だったがドイツ人である。ただし日本側に対してはオランダ人で押し通した。ドイツ医学界の名門と称えられた名家に生まれ、ドイツの大学で医学や自然科学を学んで医学博士の学位を得て、開業医として経験を積んだ後、オランダ国王ウィレム1世の宮廷外科医として招請された。オランダからそのような申し出があったのは、同国の軍医総監が父親の弟子だった縁による。

 

ウィレム1世にはまた特別の意図があった。かつて出島に商館を設けたのはジャワを本拠地としたオランダ東インド会社だったが、イギリスとフランスに制海権を奪われて以降の衰退がはなはだしく、1799年にはついに事業が破綻して解散に至った。そのため、1824年に新たにオランダ貿易会社が設立されるまでの間、オランダのアジア貿易は国の直轄事業となっていた。ウィレム1世はアジア貿易の立て直しを迫られており、事業の新規開拓が喫緊の課題となっていたのである。

 

その頃日本では、出島のオランダ商館に対して最新医学の伝授を求める要望が強くなっていた。そこで、欧州最先端のドイツ医学を修めた医者を日本に派遣し、併せて日本との貿易拡大に資する総合的な調査を行わせることが企図された。こうして白羽の矢が立ったのがシーボルトだったのである。

 

このような事情から、1823年8月に長崎に着任した時のシーボルトの肩書はオランダ国軍の軍医少佐だった。シーボルトは商館付きの医師でありながら、日本調査の業務についてはジャワ総督ファン・デル・カペルレンの直接の監督下にあり、調査業務の費用は商館経由ではなく総督府から直接潤沢な資金が支給されるという特別な立場にあったのである。

 

長崎でシーボルトは、日本各地から参集した医者に最新の医学や薬学を講義するとともに、外科、内科、眼科、婦人科等、治療を求める日本人に対し身分の分け隔てなく無報酬で治療を行った。治療を受けた者たちは御礼として様々な物を贈り、それらはシーボルトの広範な日本コレクションの一部としてジャワ総督府に送られた。また、蘭学者たちにヨーロッパの様々な知見を提供した。

 

シーボルトが収集に注力した物のひとつが植物だった。その代表的なものが茶である。総督府も新たな貿易商品として茶に期待を寄せ、シーボルトが送った茶の木の種子をジャワで栽培しようとした。何千本もの茶の木を植えた広大な農園がジャワ島に造営されたことにオランダ政府の本気度が偲ばれるが、残念なことに日本の茶の木はジャワの気候に合わず根付かなかった。

 

シーボルトが入手した物の中で欧米諸国にとって最も価値があったのは地図であろう。中でも「文政十一年のスパイ合戦」の著者がライデン大学図書館で発見した樺太の地図(間宮林蔵の実測図)とドイツで発見した日本全図(伊能忠敬の実測図の写し)のインパクトは大きかった。ロシアなどは、樺太は自国領土と地続きの半島だと思い込んでいたため、海峡で隔たった島だったという事実に驚愕したのである。アメリカのペリー提督はシーボルトの資料で事前にしっかり日本を研究してから来航した。

 

1826年の江戸参府はシーボルトの調査において極めて貴重な機会となった。オランダ商館長は4年ごとに江戸に上って徳川将軍の謁見を賜ることとなっており、シーボルトは医師として随行が認められ、往復を含め5ヶ月に及ぶ江戸滞在で日本各地を実地に見ることができた。各地で蘭学者だけでなく親蘭大名たちとも交歓し、都市の様子や庶民の暮しぶりなども目にした。街道は大名たちの行列で混雑していたが、その混雑のさばき方や川の増水への迅速な対応ぶりに幕府の行政能力の高さを知った。関門海峡や瀬戸内海では幕府役人の目前で測量まで行ったが役人たちはあえて見逃してくれた。シーボルトはこれらのことを手記「江戸参府紀行」に記した。江戸では高橋景保(幕府天文方)、最上徳内蝦夷地と樺太を探査)、間宮林蔵樺太踏破により間宮海峡を発見)らと会って北方の情報を得た。

 

シーボルトが国外追放となり、日本人関与者23人が獄につながれることとなった「シーボルト事件」は、1828年(文政11年)の9月に発生した暴風雨でオランダ汽船が座礁し、その積み荷の中から日本地図をはじめとする広範な禁制品が見つかったことに端を発するというのが長く通説となっていた。しかし、近年、オランダ商館長日誌の解読により、座礁した船には積み荷がなかったことが明らかになった。それでは事件の発端は一体何だったのだろうか。

 

シーボルト間宮林蔵に送った手紙を林蔵が開封しないまま勘定奉行に差し出したことが端緒になったという説も唱えられてきた。オランダ語で記されたその手紙は幕府役人からシーボルトに返却され、シーボルトが持ち帰ったものが「スパイ合戦」の著者によってハーグ国立公文書館で発見された。同書にはその手紙の実物写真が掲載され和訳が示されているが、大事件の発端となるようなことなど記されていない。それまでにもオランダ商館からは各種禁制品が国外に持ち出されており、幕府はそれを容認してきたことからしてもまことに唐突な出来事だったのである。

 

シーボルトが持ち帰った日本全図は高橋景保から、樺太地図は最上徳内から入手したものである。幕府天文方が担った測地事業のうち、蝦夷地測量と日本沿海実測は既に成し遂げられており、残る使命が世界地図編纂だった。だが、鎖国の下でどうしたら世界地図など描けるものだろうか。天文方高橋景保は苦悩したことだろう。その状況を打開し得る決め手となるものがあった。1803年から3年をかけて世界周航を成し遂げたロシア艦隊の指揮官クルーゼンステルンが記した「世界周航記」である。ちなみにクルーゼンステルンは「日本海」の命名者である。高橋景保はこの「世界周航記」との交換で日本全図の写しを渡したのである。他方、樺太地図については、最上徳内がどういうつもりでこれを渡したのかは謎である。

 

この一件についてシーボルトが自らの所感を記した手記が発見された。「スパイ合戦」に掲げられたその手記によれば、シーボルト自身も日本側関与者たちも大事になるなどとは思っていなかったらしい。しかも、禁制品として押収しておきながら、その大部分が返却されたことは幕府が禁制品の国外持ち出しを公然と見逃したことに他ならず、オランダ政府への抗議も一切なかったことと併せて、まことに不思議なことだったと記されている。確かに理解に苦しむ点が多い事件である。

 

しかし、この事件の背景には何らかの必然性があったはずだ。「スパイ合戦」はその背景にあった明確な構造を踏まえてかなり説得力のある推論を示している。薩摩藩財政破綻を回避するために手を広げすぎた密貿易への対処を巡る問題である。将来、決定的な事実が解明されることを期待したいが、現時点では、ひとたび事件の顛末に触れてしまったからには同書の推論を受け入れずには収まりがつかない。