多摩川通信

昭和・平成の思い出など

重忠謀殺の背景を巡る夢想

 

1205年7月10日正午頃、畠山重忠の軍勢130余騎は、武蔵国二俣川北条義時率いる数万騎の大軍勢と対峙した。鎌倉に変事ありとの知らせを受けて出陣してきたのだが、先に鎌倉に出た嫡子重保がその日の朝に殺されたこと、そして自分に対する追討の軍が迫っていることを知ったのはその直前だった。

重忠は慈円が「由々しき武者なり」と記したように、第一の者と評判された武者である。すべてを見切って重忠は大軍勢に真っ向から立ち向かった。鎌倉幕府史書吾妻鏡」によれば、戦は4時間余りにも及び、重忠の死で決着がついたのは夕刻5時ごろだったという(「中世武士 畠山重忠 秩父平氏嫡流」清水亮/吉川弘文館)。

 

何かおかしい。130騎と数万騎が対決して4時間以上もかかった?そんなことは多勢がロシア軍でもなければありえない。しかも、時間をさかのぼれば戦が始まったのは1時頃ということになる。正午に出会った兵どもがその後1時間も何をしていたのか。おそらく昼飯を食っていたのである。義時から重忠に政子からと言って差し入れがあったとしても驚きではない。

義時はせめて最後の午餐をさせたかった。そのようにも思えるほど「吾妻鑑」に記されている戦の経過は義時方のためらいに満ちている。義時は父時政から重忠謀殺を促された時、「道理がない」と反対したとも記されている。「吾妻鑑」は北条氏に都合よく曲筆されているとしても、あえてそのような曲筆を加えねばならなかったほどに重忠謀殺については根強い批判の空気があったことを反映しているとみることもできる。

 

時政はなぜ性急に重忠を滅ぼさなければならなかったのか。重忠は時政の娘婿であり、頼朝の場合と同様、いずれじわりじわりと実権を奪っていくことができたはずだ。重忠は桓武平氏良文流の秩父平氏嫡流という高い家格を背景に武蔵の在地武士団を代々掌握してきた家柄である。伊豆国の豪族とはいえ家系も定まらない北条氏がいきなり取って代わろうとすれば、東国武士団の反発をくらうことは目に見えていたはずだ。

その背景にふたつの疑問が交錯する。北条氏が鎌倉幕府の実権を掌中に収めることができた力の源泉は何だったのかということと、奥州藤原氏の富の源泉はどこに消えたのかということである。素人なのをいいことに勝手な想像を巡らしてみたい。

 

そもそも時政はどうして頼朝の舅という立場を得られたのか。頼朝は父義朝が平治の乱で敗死したため少年の身で伊豆国に流刑となったが、武家の棟梁と称された河内源氏嫡流である。時政は他にも重忠のほか、稲毛重成、足利義兼など多くの名流武家を婿にしている。在地豪族にすぎなかった時政がそのような華麗な姻戚関係を築くことができた理由は並外れた財力にあったとみるほかない。

ではその財力を生み出したものは何だったのだろうか。それは在地伊豆の地の利であったと思う。伊豆半島西岸は駿河湾に面して天然の良港が広がる。かつて沼津の海岸で目にしたさざ波の穏やかさは忘れがたいほど印象深い。

古来、日本列島の太平洋岸を南北に行き来した船は、ちょうど中間点に当たる伊豆駿河湾で北方交易と南方交易の中継を行ったものと想像する。その海上交通の要衝を長きにわたって押さえてきた者は莫大な富を手にしたはずだ。それこそが北条氏だったのではないだろうか。

 

1189年の奥州合戦で頼朝に滅ぼされた奥州藤原氏はその豊かな富で有名だったが、その富は奥羽の地が生む良馬や砂金などの産物だけでなく、蝦夷地・樺太・千島との交易で得られた鉄・鷲羽・アザラシの皮といった貴重品も大きかった。

それらの財物を朝廷や有力者に献上したり京都の文物を平泉へ移入するに当たって、陸路だけでなく日本海・太平洋の両方の海路も使われていたことが知られている。平泉と京都を結ぶ輸送ルートとして太平洋沿岸航路が重要な役割を果たしていたであろうことは地図を見れば一目瞭然である。そして北条氏の拠点はその海上輸送に古くから関わっていたであろうと想像できる。

 

ここでまたひとつの疑問が頭をかすめる。頼朝が奥州藤原氏を滅ぼした理由は何だったのかということだ。奥州合戦の三年前、頼朝と義経の関係が悪化し、義経は平泉へ逃げ帰って奥州藤原氏に匿われた。しかし、奥州藤原氏最後の当主となった泰衡は、頼朝の強硬姿勢に抗しきれず義経を襲って自害させ、その首を鎌倉に届けた。頼朝はそれでも許さず、朝廷から追討の宣旨が出ないままで合戦に向かった。実に執拗で性急である。

河内源氏と奥羽との関係は深い。頼朝から5代前の河内源氏棟梁だった頼義は、陸奥国の豪族安倍氏との間で前九年の役(1051年~1062年)を戦って安倍氏を滅ぼした。その後、頼義の嫡子義家は奥羽で清原氏の内紛に介入して後三年の役(1083年~1087年)を私戦として戦って奥州藤原氏の成立をもたらした。

これらの戦が何年にもわたったのは安倍氏清原氏に相応の財力があったからに他ならず、頼義や義家はその富が何によってもたらされているのかを現地で把握したはずだ。義家が3年にもわたって私戦を戦い続けることができたのも、参戦した武士たちに私財から恩賞を出すことができたのもこの奥羽の富を手に入れることができたからだろう。

 

頼朝が奥州藤原氏の滅亡にこだわったのは、義朝の敗死によって途絶えた奥州藤原氏を通じて北方の富を吸い上げるシステムを、奥州藤原氏に代わって直接掌握しようとしたものだったのではないかと想像する。さらに想像をたくましくすれば、そのように頼朝を仕向けたのは奥羽の富の詳細とその富を生むシステムを熟知していた時政だったのではないだろうか。

頼朝の死因は実ははっきりしない。鎌倉将軍を継いだ頼家も実朝も若くして謀殺された。その背後に、奥州の富を一手に握ることを図った時政の策謀があったのではないかと想像は飛躍する。

 

さて、そこで重忠である。秩父平氏の勢力地であった武蔵は東山道東海道に挟まれた地域である。このふたつの大動脈をつなぐため古代に官道として造成された東山道武蔵路はその所領地を貫いている。上記「中世武士 畠山重忠 秩父平氏嫡流」では、秩父平氏の領地の地域特性について詳細な分析が示されている。

東山道畿内から内陸部を通って陸奥国に至り、東海道畿内から太平洋沿岸を通って常陸国に至る。奥州藤原氏は朝廷に馬も献上していたが、馬は東山道を通って運ばれたであろう。そしてその馬や鉄、その他の財物は、東山道から東山道武蔵路を通って東海道各地の有力武士団の拠点にも運ばれて売り捌かれただろう。

重忠の本拠地である畠山郷は荒川の傍に位置しており、荒川を利用した水運も押さえていた。このような交通の要衝を掌握していた秩父平氏がその物流から得たであろう富は相当のものであったろう。秩父平氏の拠点には計画的な都市形成が行われた形跡があり、京都様式で建てられた寺や市、宿場町などが設けられていた。

 

北条氏が海運に関係して富を蓄えた一族だったとすれば、内陸物流の要衝である重忠の所領地は、海運と陸運を直結するための結節点として喉から手が出るほど欲しかっただろう。重忠謀殺から5年後の1210年、義時の弟の時房が武蔵国司となり、以後、伊豆国司および相模国司とともに鎌倉幕府の滅亡まで北条氏一族がその地位を継承した。

 

伊豆の由緒のない豪族にすぎなかった北条氏が執権として130年もの間、幕府の権力を握り続けた力の源泉は、海運と陸運の要衝を押さえるとともに、奥羽の富を吸い上げることによって蓄積した財力にあったのではないか、というのが長々とした夢想の結末である。

もしそうだったら時政は実に大した者だったということになる。出家・隠居という表舞台からの去り方も、辞任で済ませられる現代の国会議員でもあるまいし、失脚のあり様として生ぬるすぎて裏がありそうだ。重忠謀殺に対する御家人たちの反発を逸らすため、自ら周到に計画して身を引いたのだとしたら類まれな智謀の人だったといえる。