多摩川通信

昭和・平成の思い出など

キッシンジャーは何のために田中邸を訪ねたか

 

 

昭和51年(1976 年)の夏のある日、田中角栄は神楽坂の別宅に向かった。

「お前たちは心配しなくていい」と別宅の家族を安心させるために足を運んだのである。東京拘置所から保釈された後のことである。情に厚い誠実な男だった。

このとき角栄は「アメリカのほうからやられて・・・」とつぶやいたという。

当時、角栄は、ロッキード事件の火花がわが身に迫った背景についてどの程度察知できていたのだろうか。

 

 

ロッキード事件は国際的な事件だった。

1976年2月4日、米国上院外交委員会の多国籍企業小委員会で行われた公聴会において、米ロッキード社が旅客機売込みに際して各国要人に巨額の賄賂を贈っていたことが発覚した。

これが引き金となって、日本だけでなくオランダ、イタリア、西ドイツ、サウジアラビアなど多数の国で一大疑獄事件となって火を噴いた。

 

 

同年2月16日、衆議院予算委員会ロッキード社の贈賄行為に関する証人喚問が行われテレビで放送された。この証人喚問は役者がそろっていた。

予算委員長は、荒舩清十郎である。この名前だけで画面が引き締まった。加えて荒事が似合いそうな重厚な面構えである。

議場からの不規則発言に対して「うるさい!何だね君は!」と一喝したときには、大向こうから「アラフネ!」と掛け声が飛ぶかと思ったほどである。

 

小佐野賢治もまた見事な存在感を示した。国際興業社主にして角栄の盟友だった。議員の追及に対して、小佐野は「記憶がございません」で押し通した。

このセリフは単純なようでいて実は手強い。証人が自分の頭の中にはそのような記憶がないと言う以上、追及する者はまずその主張を覆す明確な証拠を突き付けねばならないのである。しかるべき証拠を持っていない議員たちは次々と空しく討ち死にした。

小佐野の一歩も引かない気概あふれる姿勢は敵役として際立っていて、荒舩とともに証人喚問における主役の双璧をなした。

 

 

ロッキード疑獄 角栄ヲ葬リ巨悪ヲ逃ス」(春名幹男/角川書店)は、機密解除となった米国の関連資料を精査することにより、米国の対中外交戦略が日本への疑獄の波及に深く関係していたことを読み解いている。

1972年2月27日、上海で発表された米中の共同声明(上海コミュニケ)は、米国が中国との国交正常化に向けて舵を切ったものとして世界、とりわけ日本に激しい衝撃をもたらした。ニクソン大統領の密使として中国に渡って密かに調整を進めたキッシンジャーの功績だった。

 

これに対し田中内閣の反応は素早かった。同年9月29日、角栄は北京で周恩来日中共同声明に調印し、日中国交正常化を実現してしまう。その結果、台湾との国交は断絶せざるを得なかったのだが、敢えて踏み切ったのである。

ニクソンキッシンジャーは怒り狂った。上記「ロッキード疑獄」によれば、上海コミュニケは米中の関係正常化を目指す姿勢を表明したものではあったが、結論としての国交正常化の実現は慎重に進める意図だったのだという。

 

米国に先駆けた日中国交正常化は、キッシンジャーには米国の外交戦略を台無しにするものと映ったであろうが、ここはやはり角栄の果断な判断と緻密な実行力を称えるべきだろう。

角栄が柔軟で現実的な構想力に長けた政治家だったことは、ただちに「交流協会」を設立して緊密な日台関係を堅持することをあらかじめ想定していた点に現れている。日台双方が実を取れる方策をしっかり用意した上で断行したのである。配慮が行き届いている点は私生活と同様だった。

 

しかし、「ロッキード疑獄」によれば、この時以来のキッシンジャー角栄に対する激しい嫌悪感が、ロッキード社の対日工作メモ(コーチャン・メモ)が日本側に渡って角栄逮捕へとつながる背景になったのだという。

 

 

本書が示した新たな事実と視点は、ロッキード事件の全容理解に大きな進展をもたらしたが、同時にある事実の不可解さが増大することになった。

その事実とは、キッシンジャーが公職を離れた後、1978年7月、1981年7月、1985年1月と3回も田中私邸を訪ねていたことである(角栄側近の石井一(元自治大臣)の手記)。さらに、時期は示されていないがニクソンも大統領退任後に田中邸を訪れていたという(田中真紀子の手記)。

 

キッシンジャーニクソンは一体何のために、わざわざ角栄を私邸に訪ねたのか。対中外交における自らの歴史的成果が霞んでしまったことで角栄を激しく嫌った2人である。懐旧や謝罪の情で会いたくなったなどとは到底思えない。特にキッシンジャーが3回も私邸を訪ねたのには何かよほどの目的があったはずである。しかし、角栄はそれらの会談の内容を側近にも娘にも一切語らなかったという。

 

ところが、「ロッキード疑獄」によると、3回目のキッシンジャー訪問から2か月近くも経ったとき突然、角栄が弁護士に「これはキッシンジャーにやられた。アメリカでもいいから、どこでもいいから調べてきてくれ」と言ったという(石井手記)。脳梗塞で倒れたのは、その3日後のことだった。

 

この時、角栄は何に気づいて慌てたのだろうか。今さらコーチャン・メモが日本に提供された経緯などといったことではなかったはずだ。

ロッキード事件の背後に、未だに知られていない深い闇があることを思わせる。