多摩川通信

昭和・平成の思い出など

木の上のゴッホ

 

先日、随分と久しぶりに従姉に会った。すでに還暦を過ぎて何年も経ったはずなのだが、相応に歳をとったようには見えない。若い時から鄙には稀なという言葉そのもののような人だったが、嫋やかな風情は風に揺れる柳のようでもあり、さては狸かと怪しんだ。

 

その弟は画才があり、伯父がよく冗談で「死んでから有名になるか」と言っていたのを思い出す。従姉を描いた鉛筆画の流麗なタッチは素人離れしていて、これはいつかきっと高く売れると中学生だった私はひそかに思った。従兄はプロの絵描きになった。

 

 

死んでから有名になった画家の代表格はゴッホであろう。生きづらい性格と精神の病を抱えながら絵に精魂を傾けたが、生前に売れた絵は1枚だけだった。報われることのなかった短い人生は、死後の劇的な評価の高まりと鮮やかな対照をなす。

 

ゴッホはオランダ南部の村に生まれ、祖父や父親と同じ牧師の道を志したが挫折し、画家を目指したのが27歳のときである。以後ほとんど独学で絵を描いた。ゴッホの絵が玄人っぽくないのはそのためだ。

37歳で自殺したから、画家としての活動期間は10年にすぎない。しかも、今日高い評価を受けている絵が描かれたのは最後の3年に満たない間のことだった。

 

絵が売れず収入のないゴッホを支えたのはパリで画商をしていた弟のテオで、ゴッホはテオに宛てて651通もの手紙を書いた。「ゴッホの手紙」(小林秀雄新潮文庫)は、その手紙の中にゴッホの心の軌跡をたどる。

本書の終りに近づくにつれて小林秀雄は批評の言葉を失い、ただゴッホの生の言葉を連ねていく。自ら「手紙の主の死期が近づくにつれ、私はもういわゆる「述べて作らず」の方法より他ない事を悟った」と書く。

 

ゴッホは、南仏アルルに拠点を移した35歳のとき、暴力的な発作を起こして正気を失い(耳切り事件)、翌年、精神病院に入院した。1年後、退院してパリ郊外の小さな町に移り住むが、この時にはすでに自分の精神が正常でないことを認めていた。その頃の手紙は、いずれまた理性を失ってしまうことへの恐怖と諦めが静謐な筆致の中に張りつめている。

 

1890年7月27日の午後、丘の上の木に登って「とても駄目だ、とても駄目だ」と言っているゴッホの姿が目撃された。その後、ゴッホは拳銃で自殺を図った。弾は急所を外れたが、29日午前1時半、粗末な狭い部屋のベッドの上で死んだ。

 

 

ゴッホの作品に対する評価が急上昇し、高い値が付くようになった背景には、いくつかのきっかけがあった。

最初の称賛が現れたのは実は生前である。死の半年前の1890年1月、復刊されたばかりの文芸誌メルキュール・ド・フランスに新進気鋭の美術評論家アルベール・オーリエが書いた評論だった。

弟テオの妻ヨハンナの貢献も大きかった。テオがゴッホを追うようにしてその半年後に死んだ後、ヨハンナはゴッホの作品(油絵約860点、水彩画約150点、素描約1030点)と手紙を整理し、様々な展覧会に出品するとともに、1914年には書簡集を出版した。

 

1929年、ニューヨーク近代美術館MOMA)が開館し、その初代館長に就任した27歳のアルフレッド・バーは、ゴッホを20世紀美術の主要な先駆者として位置付け、ゴッホの作品を重点的に展示した。

1934年、米国の作家アーヴィング・ストーンがゴッホの生涯を小説にして発表し、ベストセラーになった。その小説を原作として制作された映画(邦題「炎の人ゴッホ」)が1956年に公開され、アカデミー賞等を受賞した。

 

現在、ゴッホの絵には巨額の値が付くが、その先鞭をつけたのは日本のバブルマネーである。1987年、安田火災海上保険が「ひまわり」の1作を58億円で落札して欧米の美術市場を驚愕させた。さらに、1990年には、当時の大昭和製紙名誉会長が「ガシェ医師の肖像」を124億円で落札した。これは現在もゴッホの絵の最高額である。

 

このようなゴッホに対する劇的な評価の上昇について、フランスの社会学者が示したという見解は興味深い。報われることのなかった厳しい生活の中で芸術に全てを捧げたゴッホの生涯が聖人の受難や犠牲のイメージと重なったことにより、ゴッホに対する償いの意識が現在の評価を底上げしているというものである。

そうだとすると、現在の巨額の取引価格は、作品の価値というよりゴッホの生涯に対する評価ということになるのだろうか。

 

ゴッホの画集を繰り返し見ていると、後期の作品には確かに惹きつけられるものがある。27歳で絵の道に入り、独学でありながらわずか10年でこの域に達したこと自体が奇跡ではなかろうか。評価が定まっていない美術作品に果敢に位置づけを与えようとしたアルフレッド・バーの若さを讃えたい。