多摩川通信

昭和・平成の思い出など

日本国憲法の栄誉

 

戦後まもなく制定されたある法律について国立公文書館で立法時の資料を閲覧したことがある。出てきたのは厚紙の表紙に紐で綴られた分厚いもので、開けてみると原本なのに意外にも古さを感じない。資料をめくるごとにまるで終戦直後へと引き込まれていくような感覚を覚えた。

最後の一枚を目にしたときの衝撃は今も忘れられない。思わず「おおっ」と声が出た。GHQ(連合軍総司令部)が時を超えてぬっと現れたのである。それは英文でタイプされた法案骨子の箇条書きで、立案の始まりでありかつ結論だった。「こんな法律にまで」としばらく呆然と眺めた。たった1枚のその文書は敗戦国日本に下された「神託」のひとつだったのである。

 

GHQが下した至高の神託が新憲法草案だった。1946年2月3日、日曜日の朝、マッカーサーはGHQ民政局長ホイットニー准将に新憲法草案の作成を命じた。期限は9日後の12日とされた。実務部隊は民政局次長ケーディス大佐以下25名である。マッカーサーはこの命令において3点の中核事項(天皇制の維持、戦争の放棄、封建制度の廃止)を記した手書きのメモを示した。

日本国憲法を生んだ密室の九日間」(鈴木昭典/創元社)は、草案の作成を急いだ背景に何があったのか、どのように立案作業が進められたのか、そして日本政府はその草案をどのように受け入れたのかを、ケーディスをはじめとするGHQ生存者たちの証言や残された記録をもとに再現した。

 

草案作成に当たって最大の基礎となったのは、同年1月11日、ワシントンから東京のマッカーサーに対して発出された1通の文書だった。国務・陸軍・海軍調整委員会 (State-War-Navy Coordinating Committee)が策定した「SWNCC 228」という、いわば「通達」である。宛名は連合軍最高司令官ではなく「米国太平洋軍総司令官」だった。

上記「九日間」の巻末にある同文書を見ると、前半は日本の憲法改正における指針と規定内容であり、後半は日本の政治体制における問題点の分析である。天皇制の存続については記載があるが、戦争の放棄については全く言及がない。「日本国民がその自由意思を表明しうる方法で憲法改正または憲法を起草し採択すること」という指示が目を引く。

 

この文書を作成するには日本の社会構造や政治体制について相当の理解が必要だったはずだ。実は米国は、太平洋戦争開戦後まもなく、国務省に日本に詳しい専門家を集めて日本の「無条件降伏」後の戦後処理方針について研究を開始し、日本が軍国主義に走った原因の分析をはじめ日本の社会・政治・経済等広範な分野に関する研究を進めた。SWNCC 228はその研究の集大成だった。ケーディスはこの文書について「単なる情報ではなく、ずっと重みのあるものだった」と語っている。

 

日本研究の蓄積は日本国の存続自体に幸運をもたらした。終戦直後、米軍統合参謀本部は日本の分割占領を立案していた。北海道と東北はソ連、関東から中国地方は米国、四国は中国、九州は英国が占領するという構想だった。その案が実施に移されなかったのは、日本全土に強固な一体性があり中央集権制がよく機能しているという実状の理解から、一括占領の方が占領コストの軽減とソ連封じ込めに寄与するという政治判断に至ったからだ。そうでなかったら北海道・東北の人民は今頃、北朝鮮と同じく頭上で手を叩き続けなければなかったのだ。

 

GHQによる憲法草案の作成が急発進するきっかけとなったのは、毎日新聞のスクープ記事だった。1946年2月1日、毎日新聞は朝刊1面トップで日本政府の憲法改正草案を報じた。マッカーサーは前年10月、日本政府に対して憲法の改正を命じていたのである。しかし、突然報じられた日本政府案は旧憲法の枠組みにとどまったままで多少の手直しを施したものでしかなかった。そこで、ホイットニーの上申により、GHQの方から草案を提示して日本政府が自ら作成したことにする方が早道だということになり、2月3日のマッカーサーの下命となった。

 

GHQが草案作成を急いだのには理由がある。前年12月の連合国外相会議で設置が決まった「極東委員会」が2月26日に発足することとなっていた。同委員会は11か国で構成されたGHQ監督機関であり、米英中ソは拒否権を持っていた。また、加盟国の中には天皇を戦犯として裁くことを強硬に求めている国もあった。マッカーサーは4月10日に実施される戦後最初の総選挙を新憲法に対する事実上の国民投票にしたいと考えていたため、極東委員会と天皇戦犯問題が立ちはだかる前に草案を確定したかったのである。

 

ホイットニーは軍務の傍らロー・スクールの夜間部で法学博士の学位を取得し一時期軍務を離れて弁護士をしていた経歴があり、ケーディスは元々は弁護士で1942年から軍政に従事していた。他の民政局員たちも弁護士や学者、ジャーナリスト、元連邦下院議員など多士済済だった。米陸軍省は占領後の民政に備えて1942年に陸軍軍政学校を設けて軍政官を育成するとともに、1943年から主要大学に軍事要員養成所を置いて大学助教授レベルの民政要員の養成を進めていたのである。

 

戦争放棄の条文案は、冒頭のマッカーサーのメモを基にケーディスが作成した。マッカーサーはメモにこう記していた。

「国権の発動たる戦争は廃止する。日本は紛争解決のための手段としての戦争、さらに自己の安全を保持するための手段としての戦争をも放棄する。日本はその防衛と保護を今や世界を動かしつつある崇高な理想に委ねる。

日本が陸海空軍を持つ権能は将来も与えられることはなく、交戦権が日本に与えられることもない」

 

ケーディスはこれはあまりに理想的で、自衛権の放棄は現実離れしていると考えた。そこで「自己の安全を保持するための手段としての戦争をも」と「日本はその防衛と保護を今や世界を動かしつつある崇高な理想に委ねる」をまず削除した。

その点についてこう語っている。「どんな国でも自分を守る権利がある。個人に人権があるのと同じです。自分の国が攻撃されているのに防衛できないというのは非現実的です。少なくとも、これでひとつ抜け道を作っておくことができる、可能性を残すことができると思ったのです」

 

マッカーサー自身、後年、内閣の憲法調査会からの照会に対し、「戦争放棄の条項はもっぱら外国への侵略を対象としたものであり、世界に対する精神的リーダーシップを与えようと意図したものである。第9条のいかなる規定も国の安全を保持するために必要なすべての措置をとることを妨げるものではない」と文書で回答している。

実はマッカーサーメモのこの一文には、終戦直後のマッカーサー厭戦気分が強く影響していたのだ。回想記でこう吐露している。「戦争を、国家間の紛争解決には時代遅れの手段として廃止することは、私が長年情熱を傾けてきた夢だった。現在生きている人で私ほど、戦争とそれが引き起こす破壊を経験した者はいないだろう。何百という戦場で生き残った老兵として、原子爆弾の完成で戦争を嫌悪する気持ちが最高に高まっていた」

第9条の条文については、日本側からも修正の申し入れがあった。衆議院憲法改正案特別委員会の委員長に就いた芦田均が第1項に「日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し」を挿入し、第2項に「前項の目的を達するため」を加えたのである。

芦田はこの修正について、「「前項の目的を達するため」を加えることによって、原案では無条件に戦力を保持しないとあったものが、一定の条件の下に武力を持たないということになります。日本は無条件に武力を捨てるのではないことは、明白であります」と述べている。

マッカーサーもホイットニーもこの修正を歓迎した。ケーディスは「芦田が第9条の修正を提案してきた時はうれしかった。あの修正によって独立国としての立場が明らかになったからだ。それによって、日本が国連に加盟する場合の助けになると思った」と語っている。

 

3月5日、日米が合意して憲法改正案が確定した。翌6日、憲法改正発議の勅語が出たことにより、同日夕刻、日本政府の憲法改正草案要綱として発表された。

ここで注目すべきは「勅語」が必要だったということだ。旧憲法は欽定憲法だったから天皇の発議がなければ改正できなかったのだが、そればかりではなく、当時の日本人からすれば新憲法の内容は全くの「新感覚」であって、社会不安を生じることなくこのような短期間で改正案を確定することは勅語なしには不可能だっただろう。

終戦といい、憲法改正といい、勅語なしにはできなかったのだ。敗戦後の差し迫った状況において、天皇が日本社会の安定にとって如何に大きな存在であったかを思い知らされる。

 

日本国憲法は1947年5月3日に施行されて以来、77年になろうとしている。

「私たちは、憲法は時代が変われば修正されることになると考えていました。しかし、日本には、日本国憲法の改正案を起草するよりも、はるかに優れた憲法運用の専門家たちがいたのだと思います」というケーディスの言葉は、我々日本人に自らの栄誉を気づかせてくれる。