昭和19年(1944年)春、陸軍大将の軍服に長靴を履いた東條首相は、司法大臣を従えて、全国から集まった裁判所長官に対して訓示した。当日の夕刊で報じられたその内容は、戦局が厳しさを増す中、裁判官の自由主義的傾向を非難したものだった。
その訓示で東條は、「諸君には特別の覚悟が必要だ。これに応じなければ非常の措置をとる用意がある。わかったか」と怒鳴り上げたという。
これは「最高裁物語」(山本祐司)に出てくるエピソードである。タイトルに「物語」とあるがフィクションではない。本書は、戦後新たに出発した司法制度について、最高裁長官の個性と最高裁のスタンスに焦点を当てて平成8年(1996年)までの変遷をたどったものである。
それにしても、東條の「わかったか」は常軌を逸している。背景には軍国主義の極まりという状況だけではなく、明治憲法下の司法の位置づけに関する統治機構上の問題があった。
戦前の裁判官は最高位の大審院院長をはじめとして司法大臣の指揮下にあり、司法省が裁判所の人事や予算などの司法行政を所掌していた。また、歴代の司法大臣は検事総長を経た者で占められ、司法省の中枢は検事が掌握していた。明治憲法でも司法権の独立を建前にしていたのだが、実際には行政に対して裁判所と裁判官の地位は低かった。
戦後、日本国憲法において「すべて裁判官は、その良心に従ひ独立してその職権を行ひ、この憲法及び法律にのみ拘束される」(第76条第3項)と規定された。同時に、最高裁判所に司法行政を一元的に担う事務総局が置かれた(裁判所法第13条)。これによって、立法・行政と対等の立場での「司法権の独立」が確立されたのである。
統治機構として三権の一翼を担う最高裁判所の権威を厳然として印象付けたのは、第2代最高裁長官の田中耕太郎である。国際法や法哲学などの分野で優れた業績を上げた学者だったが、長官就任後に反共産主義のあからさまな政治的発言で社会の耳目を集めた。
在任期間は昭和25年(1950年)から昭和35年(1960年)にわたり、現在に至るまで歴代長官の中で最も長い。その10年間というものは、朝鮮戦争の勃発(1950年)、サンフランシスコ講和会議(1951年)、ワルシャワ条約機構の発足(1955年)、水俣病の発生(1956年)、砂川事件(1957年)、安保闘争(1960年)と、再起に向かって歩みを始めた戦後日本の骨格を揺るがす大事件の連続だった。
日米安保条約の合憲性が争われた砂川事件の上告審では、統治機構としての最高裁判所の姿勢が問われることとなった。昭和34年(1959年)、田中が裁判長を務める最高裁大法廷は次のように判示した。
「安保条約の如き、主権国としてのわが国の存立の基礎に重大な関係を持つ高度の政治性を有するものが、違憲であるか否の法的判断は、純司法的機能を使命とする司法裁判所の審査に原則としてなじまない性質のものであり、それが一見極めて明白に違憲無効であると認められない限りは、裁判所の司法審査権の範囲外にあると解するを相当とする」
田中のタカ派的発言や政権寄りとも見られた判決などには批判もあったが、当時の時代背景に照らせば、田中の姿勢は国の存立を守らねばならないという強固な意思で貫かれているように思う。頑なとも見えるその姿勢の背後には、敗戦によって亡国の危機感を肌身に味わった経験が横たわっていたのではないだろうか。
第11代最高裁長官を務めた矢口洪一は、退官後のインタビューで「最高裁は実は違憲立法審査権を持った時から、もはや単なる司法機関ではなくなったのです。ある意味では政治機関です。そうした意味合いから、誤解を恐れずに言えば、長官は広い意味で政治家でなくてはならないと思います」と述べている。
矢口は法廷よりも最高裁事務総局での司法行政の方が圧倒的に長い異色の裁判官だったが、事務総局民事局長のとき四大公害裁判における立証責任を被害者から公害企業に転換する疫学的因果関係の導入に道を開いたことで知られている。長官時代には、司法の民主化に向けて、陪審制や参審制について先進各国の実情調査に着手した。
ここで思い出すのは、日本映画「12人の優しい日本人」である。元々は舞台劇(三谷幸喜作)だが、1991年に映画化された。
日本に陪審員制度があるという架空の設定で、米国映画「十二人の怒れる男」(1957年)の状況設定を逆転させたコメディであるが、結末は本家以上に考えさせられるものがあった。陪審員の中の平凡なオジサンとオバサンの物の見方が結局は真相を見抜いていた(らしい)ことが、激しい議論の末に浮かび上がってくるのである。
身近にいる普通の人たちの何気ない言動の中に絶妙な世間知を見出すことはよくあることで、むしろそういったものこそ「良識」と言うにふさわしい場合もある。
「最高裁物語」は次のような矢口の言葉を上げている。
「裁判を専門家集団だけに任せることには限界があります。欧米には、社会の正義は自分たちが守るという強い信念があり、これが陪審制度を支えています。日本でも採用すべきです。自らが社会の正義を守るということを、国民一人ひとりが自覚したとき、実現するでしょう」
「陪審制度は、ただダメだ、ダメだと言っていないで、とことん可能性を探るべきです」
平成21年(2009年)、裁判員制度が始まった。地方裁判所で行われる刑事裁判のうち、一部の重大犯罪について、国民から選ばれた裁判員が裁判官とともに審理に参加する。
この制度が始まった頃はマスコミの取り上げ方が大きかったが、最近ではとんと目にしない。うまくいっているのか否か、どのような問題が生じているのか、実情をほとんど知らない。
一般国民にとって裁判所というものは相変わらず遠い存在である。そこであらためて「司法権の独立」という理念に思い至る。
裁判所と裁判官は、立法府・行政府から干渉されることなく裁判をおこなうことが保障されているが、同時に国民からも超然と独立しているのが実態ではないだろうか。
それは公正な裁判を実現するために必要な面もあるが、他方で、複雑化・高度化が急速に進む様々な事象について法律解釈の専門家だけで判断するのは無理がある。
たとえば、近い将来に予想されるデジタル通貨を巡る争訟に、裁判官はどのように対処するのだろうか。各分野の専門家が裁判に加わることなしに、判決の的確性と適正性を実現することは難しいと思われる。
これは裁判に市民感覚を取り入れようという従前の陪審制や参審制とは次元の違う話であり、全く新しい試みが必要となる。
矢口元最高裁長官の「ただダメだ、ダメだと言っていないで、とことん可能性を探るべきです」という言葉は今あらためて重みを増している。