多摩川通信

昭和・平成の思い出など

幕末を見た人々

 

朝日新聞の「天声人語」は、1904年(明治37年)に掲載が始まった。そのタイトルは「天に声あり、人をして語らしむ」という「中国の古典」の言葉に由来するとされる。しかし、どうもその出自はあやしい。

中国文学者だった高島俊男は、そのような古典には心当たりがないと書き残した。また、戦後17年もの長きにわたって天声人語の執筆を担当した荒垣秀雄は、「その原典はよくわからぬ」と正直に書いている。

 

ところが、たまたま手に取った本の中に、これこそが元ネタではないかと思われるものを見つけた。本の名を「幕末百話」という。

報知新聞の記者だった篠田鉱造1871年~1965年)が明治35年(1902年)に連載を始めた古老からの聞き書きが好評を呼び、全百話をまとめて明治38年(1905年)に出版したものである。

 

その第18話として「天意人言江戸の落首」という表題が付いた聞き書きがある。百話のいずれも語り手は明かされていないが、この話は大身の武家の家臣だった人の回想と推測される。その一部を抜き出してみる。

「昔は新聞というもののない代りに、評判というものが妙に伝わってきまして、風聞となります。そのまた風聞が落首となって、政治や、出来事や、何やかやについて風刺諧謔の意を漏らしますが、天意人言とはこれでしょうか」 

 

落首とは匿名による戯れ歌であり機知と諧謔に富んでいた。

この語り手は「天意人言」という漢語めいた言葉を、すでに広く知られていたもののように語っている。

報知新聞で連載が始まった頃の記事だろうから、「天声人語」の命名者がこの記事を読んで「天意人言」の発想を拝借し、原典の存在を匂わせてもっともらしい形を整えたことは大いにありうる。

 

 

第18話の中に、落首が特に盛んに現れたのは、黒船来航のときと桜田門外の変のときだったという回想がある。

諸大名の家中にも狂歌や落首の才を示した者たちがいたが、江戸城内の坊主衆にはかなわなかったという。何事も早く耳にした上、悪口文才に長けていたので、実に腹を抉るものがあったらしい。 

 

黒船が来航したときは、船員の中にコレラにかかっていた者がいて、日本各地に感染が広がった。江戸では3万人もの死者が出たという。第53話で、ある町人がコレラ渦中の悲惨と混乱を思い返している。

「恐ろしいの怖いのと言ってあんなのも珍しかったです。今朝話していた人が晩には斃れたという。たった今薪を割っていたのに、もう焼場へ持って行かれたという騒ぎなんです。実に義理も人情もなくなってしまって、どうなるのかと思いました」

 

一人身だったこの町人は「とても神経がピクピクして、今にも自分がやられそう」という思いが募り、江戸から関西に逃れようと東海道を急いだが、路々あちらこちらで死体を目にした。

神奈川の茶屋で休んだところ、神奈川がコロリ(当時コレラはそう呼ばれた)の本元で、浦賀から江戸と大阪の両方に広がったという話を聞く。「黒船にコレラ患者があって、その死体を捨てて往ったのが伝染した」と言われていたらしい。

 

行き場を失って江戸に戻ったが、江戸は江戸で棺桶ができた後から足りなくなるというあり様だった。

「どうしたらよいか分かりませんで、しまいには『どうともなりゃぁがれ』と、酒も呑めば食べたいものも食べるようになりましたが、いつかだんだんとなくなりました」と振り返っている。

何だか今の新型コロナとそっくりの騒ぎだったのだ。

 

 

第85話では、桜田門外の変があったとき、直後の現場を目撃した武士の鮮やかな回想が記されている。

その日(安政7年3月3日(1860年3月24日))は雛の節句だったが、夜中からの大雪で、朝の空は土気色の雲が低く垂れ込めていたという。

「私も主人の供で本丸へ出ねばならぬ。これは諸大名の御登城、さぞかし御困難。供廻(ともまわり)の苦辛は察しられる」と語り手は思った。

 

主人たる大名の家中が各々登城の準備をしていたときだった。どこかの大名の供廻の仲間(ちゅうげん)が雪の中を真っ青な顔で転げ回りながら駆け込んできた。

「ただ今、桜田御門外で、大老井伊掃部頭(かもんのかみ)様が水戸の浪士に首をお取られ遊ばした。大変な騒ぎでございます」とその仲間は唇の色を変えて震える声で言った。しかし、その場では「何を馬鹿な」と本当と受け取る者はいなかった。

 

「家老は血気の武士数名に実地を見て来よと命じ、私もその数へ加わって駆け付けて見ますと嘘じゃあない」

そのとき、騎馬の侍が水戸浪士を追って駆け抜けていった。

「馬上具足に身を固め、向う鉢巻の年配二十歳ぐらいの士(さむらい)、小脇に手槍を抱込み来るなんど、その顔の雪に映じて蒼味を佩びた容子、未だに眼に残っています。無事太平に馴れた人々も戦場へ望めばかくやあらんと今に思い出します」

桜田御門の方は、水戸の浪士も引き揚げた後らしく、雪は桜の花を散らしたように血染めとなっていました」

 

このとき次のような落首が出回ったという。

「時ならぬ吹雪は今朝の大あらし 外桜田の花と散りけり」

桜田が桃の節句に赤くなり」

 

 

こういうものを読むと、それぞれの時代を生きた人々が直接に目にしたことの重みを感じずにはいられない。では、自分が体験した「時代」はどうだったかと思い返してみる。

 

物心ついたときは日本が戦後を終えて新たな時代に向かおうとしているときだった。当時は20年から30年も前のことなど遙か遠い歴史の彼方の出来事のように思っていたものだが、その倍近い年月を生きてみると、実は戦争からそう遠くない時を生きていたことに意外な心持ちがする。幸いに平穏な時代ばかりを生きてきたが、何となく引け目のようなものを感じることもある。

 

それでも世の中の劇的な変化のただなかにあったことは確かだ。その変化を一つ挙げるとしたらアナログの世界からデジタルの世界へと変わったことだろう。

2000年代になってインターネットの普及で世の中は劇変した。電子メール、検索エンジンソーシャル・ネットワーク・サービス、ネットショッピング。今やどれか一つが欠けても社会や生活が成り立たない。

 

インターネット以前の世界を経験していることは今や貴重なことではなかろうか。Netflixで「全裸監督」を見たとき、ふとそう思った。

かつて、ビニ本が堆く積まれた本屋はどこも若者たちのエネルギーで溢れていた。大学受験で初めて上京してビニ本屋というものを覗いたとき、壁いっぱいに並べられたビニ本の表紙のひとつひとつが眩い人生の扉のように思えた。

黒木香は、ドラクロワが描いた自由の女神のように若者たちの迸るエネルギーを新しい時代へと導いて、「時代の歯車を回した者はその利益に与ることはない」という冷徹な格言(確かあったと思うが)に微笑みかけて潔く去っていった。懐かしいなぁ。