多摩川通信

昭和・平成の思い出など

水平を越えて

 

かつて東北では集落のことを普通に「部落」と呼んでいたのだが、最近、地方紙や自治体の広報誌などで一向にその表記を見ないことに気がついた。ひょっとしてと、ネットで調べてみたらやはりそうだった。

平成4年(1992年)、山形県でべにばな国体が開催された際、地元自治体から被差別部落と混同されないように配慮が必要だという声が上がり、「地区」や「集落」といった表記への言い換えが進んだらしい。東北ではそれ以前にも何回か国体が開催されていたことからすると、主に西日本で広まっていた認識が東北まで及んだのがちょうどその頃だったということかもしれない。

 

「部落」という言葉に特別の意味があることを知ったのは東京に出てからだ。自分の故郷のことを語るのにしばしば部落と口にしたとき、大学の友人が「その言葉はこちらでは注意した方がいい」と言って、被差別部落について丁寧に説明してくれたのである。友人というものはありがたいものだ。

初めて聞く話であり、同年代の者が自分の知らない言葉を使いこなすことにも驚愕して、「何でそんなことを知ってるんだ」と、いくたび感嘆の声をあげたか知れない。友人の感度の高さもあったのだろうが、70年代後半においては東京と地方ではやはり情報の格差があったと思う。

 

そのとき、そう言えばと思い出したことがあった。中学校の夏休みに、地元の寺でクラス合宿があった。夕食の後、映画を上映するという。SFか探偵ものかと期待したが、何やら差別がどうのという暗く悲しげな恋愛ものだった。その内容がほとんど頭に入らなかったのは映画のせいばかりではなかった。映画の後で墓場での肝試しが予定されていたのである。女子をどのようにして怖がらせようかと私の頭はフル回転していて映画どころでなかったのだ。先生は「今はわからなくても」という思いだったのだろう。ありがたいものだ。

 

東北で被差別部落のことが知られていなかったのは、そもそも差別に根拠がなかったせいもあるだろう。史学・民俗学の泰斗だった喜田貞吉は、「被差別部落とは何か」(河出文庫)において、大正8年(1919年)に既にその点を明確に説き示している。

同書は、日本の歴史上、差別が固定化したことは極めて特異な現象だと述べ、肉食が宗教上の禁忌に触れたこともさることながら、特定集落における著しい人口増加によって生じた恒常的な貧困が差別の固定化をもたらしたという見解を示している。

人口増加の事実は徳川以来の記録に現れており、肉食によって栄養状態が良かったため流行り病などへの抵抗力が強かったことが増加の要因だったのではないかと推測している。

さらに、肉食自体、上代においては天皇をはじめとして一般的な習俗だったことが各種の古書に記されているとして、差別は全く「因襲」と言うほかないと断じている。

 

差別解消に向けた運動として歴史的な役割を果たしたのが「水平社」だった。「全国水平社 1922-1942 差別と解放の苦悩」(朝治 武/ちくま新書)は、その20年にわたる闘いを俯瞰している。

全国水平社は大正11年(1922年)に創立された。その後、地域ごとの水平社も設立され、全国水平社を軸として差別糺弾闘争が繰り広げられた。糺弾の対象は、地域社会での日常的な差別のみならず、学校、官公庁、軍隊における差別にも及んだ。

岐阜県水平社の北原泰作は、入営した岐阜歩兵連隊で受けた過酷な部落差別について、幾度も上官に訴えたがことごとく軍規違反としてあしらわれた。そのため、昭和2年(1927年)11月19日、昭和天皇の閲兵中に天皇に直訴状を手渡そうとしたが、その場で取り押さえられ収監された。新聞各紙はこの事件を大々的に報じ、英国のタイムズ紙も封建時代の悪弊を根絶できない日本政府を批判した。

水平社の活動は治安維持法の施行により幕を閉じたが、その志は戦後の部落解放運動に引き継がれた。

 

現在の被差別部落はどのような状況にあるのだろう。「被差別部落の青春」(角岡伸彦講談社文庫)は、部落出身者への密接な取材によって、変貌していく部落の状況と若者たちの内心の揺らぎに迫った。

読後の印象はとても爽やかだ。祖父母から父母の世代、そして子や孫の世代へと、世代を経るごとに、部落出身者の出自にまつわる意識が明らかに変わってきていることがわかる。同和対策事業や教育支援事業などによって物心両面で貧困解消が大きく進展したことが要因として大きいと思われる。何といっても登場人物がみな前向きなことが、強靭な希望を感じさせて心強い。

 

同和対策事業は所期の目的を達成したとして平成14年(2002年)に終了した。しかし、その後も過剰な事業が継続されていて、中には不正が黙認されているケースすら生じているという。

「京都・同和「裏」行政 現役市会議員が見た虚構と真実」(村山祥栄/講談社プラスアルファ新書)はその実態を調べ上げて勇気ある問題提起を行った。

かつては貧困そのものだった部落も、普通と変わらないか、むしろより整備された街並みへと変貌し、逆に他の地域の住民から妬みを買うまでに至っていることは、まさに同和対策事業が飽和点に達したことを示しているのだろう。

 

因襲の根絶に向けた取り組みは今後も必要だろう。だが、同時に、日本は今後、さらに大きく深刻な差別に向き合わなければならないかもしれない。移民を巡る問題だ。

日本の少子高齢化による生産年齢人口の減少は一朝一夕では改善できそうにない。いずれ大規模な移民の受け入れが避けられない状況に追い込まれる可能性が高い。

労働者の受け入れだけではない。活力を失った日本経済を再生するための最後の切り札は外国資本だろう。リスクを恐れず獰猛で非情な外国人経営者と経営幹部、それは中国人やインド人やアフリカ人などの多様な人々かも知れない。日本人社員が差別の対象となる可能性だってあり得る。

大規模な移民の受け入れが不可避だとすれば、それによって生じる様々な軋轢が深刻な社会問題を惹起するとしても、状況を受け入れて対応していくほかない。それは新しい闘いの始まりだ。