多摩川通信

昭和・平成の思い出など

オリンピアンの栄光と孤独

 

東京オリンピックの期間中、テレビの画面を通してオリンピアンたちの数々の栄光を目にした。連日の日本人選手たちの活躍にはコロナの鬱屈を忘れて歓喜に浸った。同時に、それらの栄光のきらめきの向こうにオリンピアンの孤独を目にすることもあった。

 

体操の内村航平が初めてオリンピックの舞台に登場したのは2008年の北京大会だった。よりによってその開会式が間もなく始まろうとするとき、わが家のブラウン管テレビが壊れた。慌てて家電量販店に駆け込んで買った29型の液晶テレビは8万円だった。

その大会で19歳の内村は団体総合と個人総合で銀メダルをとった。以後、国内外の大会で約10年間にわたって個人総合の連覇を続けた。2012年ロンドン・オリンピックで団体総合銀メダルと個人総合金メダル、2016年リオデジャネイロ・オリンピックでは団体総合と個人総合の両方で金メダルに輝いた。まさに「絶対王者」と言うにふさわしく、長きにわたって日本国民の誇りを満たしてくれた。

その内村が今回の東京オリンピックで唯一出場した鉄棒で、誰も予想しなかった予選敗退となった。高難度の手放し技を連続して決めた後、普通の演技の中での一瞬のミスで落下した。若い選手達が躍動する傍らで、独り結末を受け止めている内村の姿をカメラは捉えていた。

「もう自分は主役ではない」という言葉を残して内村が去った後、若手選手達は団体総合で銀メダルをとり、内村が初めてオリンピックに出場した時と同じ19歳の橋本大輝は個人総合と鉄棒で金メダルに輝いた。橋本の鉄棒の着地は内村を彷彿とさせる微動だにしない美しいものだった。次の世代の台頭と新たなエースの誕生に賞賛と興奮が渦巻く中、王者は静かにその地位を降りた。 

  

水泳の萩野公介は、高校生で出場したロンドン・オリンピックの400メートル個人メドレーで銅メダルをとった後、リオデジャネイロ・オリンピックの同種目で金メダルに輝いた。個人メドレーの勝者はキング・オブ・スイマーと呼ばれる。その頂に立ったとき、萩野は何を見たのだろう。

リオデジャネイロ大会の後、萩野が極度の不振に陥ったことが報じられた。どうしたらその不振から脱出できるのか誰もわからないまま、独りもがき苦しみ続けた。

かろうじて出場を掴んだ今大会で、200メートル個人メドレーの予選を勝ち抜いて決勝進出を決めたとき、幼い頃からともに競い合ってきた瀬戸大也とまたレースができると涙ながらに喜びを語った。泳ぐことがただ楽しかった頃のように競技がしたいという率直な思いの吐露は、リオデジャネイロ以来、萩野が抱えてきた苦しみの深さを伝えていた。決勝で瀬戸は4位、萩野は6位だった。

萩野は何に苦しんだのか。それにありきたりの言葉を当てはめても意味があるとは思えない。萩野にしかわからない苦しみがあったのだ。孤高の境地で苦しみ抜いた萩野が決勝の舞台で力泳する姿には胸を打つものがあった。

 

イード・モラエイはモンゴルの国旗を胸に付けて東京オリンピックの柔道に臨んだ。しかし、彼の母国はモンゴルではなくイランである。なぜそのようなことになったのか。背景にはパレスチナ問題があった。

アラブ諸国は、1948年のイスラエル建国によって父祖の地を追われたパレスチナ人への連帯を示すため、スポーツの場でのイスラエル選手との対戦をボイコットしてきた。モラエイも試合に勝ち進んでイスラエル選手と対戦しそうになるとイラン政府からの指示によって対戦を回避した。家族の身を守るためにはそうするしかなかった。しかし、それが再三に及んだとき、ついにモラエイは国際柔道連盟(本部スイス・ローザンヌ、名誉会長プーチン・ロシア大統領)に助けを求めた。その結果、2019年にモンゴルに亡命し、モンゴル国籍で東京オリンピックに出場することになったのである。

東京大会の舞台でモラエイはモンゴル代表として81kg級で銀メダルに輝き、複合団体でも活躍した。試合で勝ったとき胸のモンゴル国旗を指し示してモンゴルへの感謝を示した。テレビカメラが捉えたその様子を目にしたとき、モラエイの心中の深い悲しみを思わずにはいられなかった。一見すると中年男のような容貌だが、まだ30歳に満たない若者である。勝っても負けても相手への敬意を忘れない姿勢がなおのこと寂しさを際立たせるように感じてならなかった。

  

未曽有の困難を抱えた大会だったが、たとえ無観客であろうと開催した意義は大きく、開催は勇気ある決断だった。テレビ観戦が主体となったが意外に盛り上がった。国内外の多くの選手が開催してくれたことに対する感謝を口にしたことが印象に残った。東京オリンピックは、人類にはどんなときでも困難を乗り越える力があることを高らかに示した意義深い大会となった。

 

冷戦さなかの1980年に開催されたモスクワ・オリンピックでは、米国の主導により日本を含む多数の国が参加をボイコットした。「たった一人のオリンピック」(山際淳司)は、このときボート(シングルスカル)の代表に選出されていたひとりの選手にスポットライトを当てた。選手の名を津田真男という。 

津田は23歳のとき、停滞した日々からの一発逆転を図って「オリンピックに出よう」と思い立った。そして最も可能性があると見込んだボートの一人乗り競技に目をつけた。ボート競技の経験は全くなかったが、大学運動部にも実業団にも所属せず、たった一人でボートの練習を始めた。安定した職にも就かなかったため金銭面でも厳しい条件の下で練習に励み、国内の競技会であれよあれよと実績を挙げていった。そして28歳になろうとするとき、とうとう本当にオリンピック出場選手に選ばれてしまう。まるで作り話のような突拍子もない展開である。以前書いたマイケル・エドワーズ(参加することの意義)のような人が、それより前に日本にいたのである。

だが、津田の挑戦は、モスクワ・オリンピックのボイコットで空しく終わった。なんという徒労であろうか。孤独極まる挑戦は何の賞賛も得ることなく終わってしまったのである。上記の短いノンフィクションが世に出なければ、津田の一人ぼっちの闘いは何の痕跡も残さずにとっくに世の中から忘れ去られていただろう。

オリンピックのボイコットは、人類の叡智のあり方として本当に意義のある不可避の方策だったのだろうか。 

 

最近、米国では、新型コロナ・ウイルスが中国武漢の研究所から流出し、中国政府の隠蔽によって世界に拡散したという分析結果が発表された。

これが本当なら、中国が来年2月に開催する北京冬季オリンピックへの国際社会の対応が問題になるだろう。自国がまき散らしたウイルスのせいで東京大会は無観客とせざるを得なかったのに、北京冬季大会は盛大に開催するなどという身勝手は許されない。

しかも、その頃になれば全世界的にワクチンの接種が行き渡り感染が下火になる可能性があるから、中国共産党は「人類が本当にコロナに打ち勝ったことを記念するオリンピック」だとぬけぬけと標榜しかねない。

これに安易にボイコットで対抗するよりも、全世界が連帯して「ウイルスを拡散するような独裁体制が人類の生存にどれほど危険なものであるか」をアピールする「歴史的な大会」にするよう持っていくべきだ。