多摩川通信

昭和・平成の思い出など

ハル・ノートの「China」と満洲

 

1941年11月26日、米国のコーデル・ハル国務長官は在米日本大使館の野村吉三郎と来栖三郎の二人の特命全権大使に対し「合衆国及び日本国間協定の基礎概略」とタイトルを付した文書を提示した。戦後「ハル・ノート」と呼ばれるようになったものである。

東京の東郷茂徳外務大臣に電報で伝えられたその内容を日本側は最後通牒に相当するものと受け取った。だが、同文書の冒頭に「Tentative and Without Commitment」(仮案にて拘束せられることなし)と明記されていたことからすれば、米側から交渉の扉を閉ざしたものでなかったことは明らかである。

ハル・ノート全文:外務省「日本外交文書デジタルコレクション/日米交渉-1941年-下巻」(https://www.mofa.go.jp/mofaj/annai/honsho/shiryo/archives/st-13-2.html)>

 

東條英機東京裁判の宣誓供述書でハル・ノートについて次のように語っている。「この覚書は・・当時日本の到底受け入れることのなきことが明らかとなっておった次のごとき難問を含めたものであります。すなわち(1)日本陸海軍は言うにおよばず警察隊も支那全土(満洲を含む)及び仏印より無条件に撤兵すること、(2)満洲政府の否認、(3)南京国民政府の否認、(4)三国同盟条約の死文化であります」 

<東條供述書:国会図書館デジタルコレクション(https://dl.ndl.go.jp/pid/1042032/1/57)>

 

この供述書とハル・ノートの間には決定的な食い違いがある。供述書は上記(1)で「支那全土(満洲を含む)」とわざわざカッコ書きを加え、(2)では「(重慶国民政府以外の)支那におけるいかなる政府、もしくは政権」とあったのを「満洲政府」と言い換えているが、ハル・ノートでは単に「China」と記されているだけで満洲については全く言及されていないのである。

 

この意味はとてつもなく大きい。太平洋戦争は海軍が主体となる戦争なのに東條供述書にはその海軍が同年11月末においてなお「戦争はできない」と高松宮を通じて天皇に上奏していたことが記されている。そんな有り様なら満洲を確保できればそれを幸いに満洲より南の「China」からは撤退して対米戦争を回避するのが最も合理的な選択だったはずだ。満洲に全く言及していないことからは米国が満洲を重視していないことが読み取れるのだから満洲を確保できる余地は十分にあったであろう。

そうしていたなら今日の世界は大きく変わっていたはずだ。中国に共産党政権は成立せず、ソ連は日米英連合軍の前に崩壊し、日本は満洲とシベリアの石油資源の恩恵を享受し、ウクライナ戦争は起きなかっただろう。ユーラシア全域に偉大な平和と繁栄をもたらした可能性が大きかったのだ。

 

ハル・ノートにおける「China」を巡る問題については、「ハル・ノートを書いた男 日米開戦外交と「雪」作戦」(須藤眞志/文春新書)に興味深い分析が示されている。同書には1941年12月1日の御前会議における原嘉道枢密院議長と東郷外相とのやり取りが取り上げられているが、当時も「China」(支那)の定義が問題として認識されていたことがわかる。以下のとおりである。

 

(原枢密院議長)「支那という字句の中には満洲国を含む意味ありや否や。このことを両大使は確かめられたかどうか。両大使はいかに了解しておられるかを伺いたい」

(東郷外相)「支那満洲を含むや否やにつきましては、もともと4月16日米提案のなかに満洲を承認するということがありますので、支那にはこれを含まぬわけでありますが、話が今度のように逆転して重慶政権を唯一の政権と認めて汪政権を潰すというように進んできたことから考えますと、前言を否認するかも知れぬと思います」

 

原枢密院議長の問題意識は鮮明であり的確だ。さすがに陸奥宗光が見出した切れ者である。他方、東郷の返答には唖然とせざるを得ない。開戦か否かを決する究極の場にあって「かも知れぬと思います」とは何事か。それを確認せよと言っているのである。両大使が確認していなければ米国国務省に照会すべきであり、仮に満洲を含むという回答であれば満洲を除外すべく国運を賭けて交渉すべきだったのだ。主役の海軍が燃料不足で勝算が立たないから降りたいと天皇にすがっているような有り様でどうして戦争などできようか。

 

天皇は同年10月17日、東條に組閣を命じた時、「9月6日の決定に捉われず内外の情勢をさらに広く深く検討して慎重なる考究を加うるを要す」と伝えたのである。この決定とは統帥部が求めた「帝国国策遂行要領」の策定を指す。同要領において「同年10月下旬を目途に戦争準備を完成し、それまでに外交交渉の目途が立たない場合は直ちに対米英蘭開戦を決意する」と決定された。石油貯蔵量が日一日と逼迫の度を強めていく状況が背景にあった。しかし、東條は天皇の意思に忠実であろうとしたのだから、満洲を確保できる可能性があるならハル・ノートはむしろ交渉のチャンスだったはずだ。

 

満洲を維持することは決して荒唐無稽な話ではなかった。上記「ハル・ノートを書いた男」はハル・ノートが作成された過程を詳細に追及しており、それによれば国務省案では日本側に手交される前日まで「China(満洲を除く)」と明確に括弧書きが付いていたのである。

「(満洲を除く)」が削られた理由は明らかでないというが、直前の修文であり、背景事情を示す特段の記録もないことからすれば、米国の政策に根本的な変更があったとは思えない。

米国にとって参戦の主目的は対独戦争であり、遠く隔たった東と西の両方で戦争を遂行する負担と犠牲の大きさは悩ましかったであろう。交渉の余地は十分にあったはずだ。

 

それだけに当時の日本がハル・ノートを足がかりとして対米戦争の回避と日中戦争の泥沼からの脱出を図る絶好の機会をみすみす逃してしまったことは残念でならない。

当時、外務省の官僚たちは問題を正確に認識していたはずだ。外交文書の文言についていちいち定義を突き詰めるのは彼らの本分である。国の存続にかかわる局面においてその本分が果たされなかった責任は陸海軍が負うべき責任以上に大きい。

東條の宣誓供述書に見られる「支那」への「(満洲を含む)」の挿入や「満洲政府の否認」という言い換えは役人が得意とする姑息な手口である。この闇は必ず解明されなければならない。