多摩川通信

昭和・平成の思い出など

阿片と戦乱の歴史

 

 

阿片は芥子の実から採取される麻薬である。古代のエジプト・ギリシャでは鎮痛薬として用いられた。阿片を精製したものがモルヒネであり、モルヒネを精製することによってヘロインができる。

交易の拡大に伴って阿片は薬として世界各地にもたらされたが、その鎮静作用から嗜好品としても用いられるようになった。阿片の中毒性は高く、摂取が進むと精神と身体に深刻な障害をもたらす。

 

その阿片が清朝末期の中国大陸で急激に蔓延したのは英国の「商品開発」の結果だった(「阿片の中国史」(譚 璐美))。背景には英国の対中貿易を巡る抜き差しならぬ事情があった。

18世紀末、英国は中国から茶、絹、磁器などの生活必需品を購入していた。特に茶の輸入は喫茶の習慣が定着したことにより中国からの輸入総量の90%以上にも達していた。反対に中国で売れる物がなかったため英国の大幅な入超が続き、決済手段である銀の流出が甚だしかった。 

そこで英国は植民地インドで生産される阿片に目を付けた。阿片の増産を図るとともに、生産管理を強化して品質の向上に努めた。同時に、阿片を炙って煙をキセルで吸うという新たな吸飲方法を編み出して中国に持ち込んだ。しかしそれは、中国が阿片の輸入を禁止していた中での密貿易だった。阿片は高級嗜好品へと姿を変え、たちどころに中国に広がった。英国・インド・中国の三角貿易の成立である。 

この結果、貿易の流れが逆転し、今度は中国からの銀の流出が止まらなくなった。中国は慌てて阿片の使用を死刑をもって禁止したが密貿易の拡大は止まらなかった。中国は窮余の策として英国が持ち込んだ阿片を没収して廃棄するという強硬手段に出た。これに対し英国政府は、1840年、軍艦16隻と陸軍4千人を派遣することを決めた。

 

陸海軍の派遣に当たって英国議会では激しい議論が巻き起こった。それはそうだろう。麻薬の密輸を守るために国軍を派遣するのである。野党保守党のグラッドストンは「かくも不正な戦争、かくも永久に不名誉となる戦争をかつて知らない」と演説したが、賛成271票・反対262票で承認された。 

当時、英国では、産業革命によって勃興した商工市民層が選挙権を獲得し、貿易においても自由競争を求めたことにより、対中貿易における東インド会社の独占権が廃止された。だが、中国貿易に参入したものの資本力の弱い中小貿易商にとって阿片の取引は大きかった。政権与党の自由党がこの新興勢力の立場に与したという面もあったであろう。 

清は旧時代の軍事力で2年間にわたって阿片戦争を戦ったが敗れて、1842年、南京条約の締結により香港島の割譲、5港の開港、没収した阿片の賠償などを認めさせられた。

 

隣国がこのような状況にあったときに、日本が阿片の侵入から免れることができたのはなぜか。英国は、中国に対しては貿易赤字の解消に迫られて阿片の売り込みが必要だったが、日本との間ではそのような差し迫った事情がなかったということがまずある。加えて、中国では阿片の輸入を禁じても、取締りが緩く賄賂で容易に密輸が見逃されたが、日本ではそのような腐敗がなく水際で防ぐことができたという点も大きい。1858年に締結された安政の五カ国条約に、阿片の持込みを禁じる条項が盛り込まれたことは幕府外交の手柄だろう。

 

その後日本は、日清戦争(明治27年~明治28年(1894年~1895年))に勝って台湾の割譲を得たが、台湾における阿片蔓延への対処が問題となった。台湾に阿片が入ったのは1624年のオランダによる台湾占領時に遡る。

阿片禁止への抵抗は抗日運動の一端ともなったため、1898年に台湾総督府の民生長官に就任した後藤新平は、性急な禁止を避けて阿片の専売制を敷いた。吸飲者を特定するため阿片喫烟特許鑑札と買入通帳を交付するとともに阿片の購入に高率の税を課した。これにより台湾統治の50年間で阿片は根絶された。 

阿片の専売制は、植民地に阿片を持ち込んだ西欧諸国が古くから用いた手法であり、その主目的は専売による収益の確保にあった。台湾でも阿片専売は大きな収益をもたらし、台湾拓殖の主要財源となった。この成功が後に満州国に受け継がれることとなる。

 

阿片は中国で上流階級を中心に贅沢な嗜好品として受け入れられた。20世紀前半には上海だけでも約1700軒の煙館(阿片の吸飲施設)があり、高級なものは劇場やホテルを兼ね備えた華やかな社交場だったという。 

中国で阿片がもたらす利益を貪ったのは外国勢だけではなかった。清朝が倒れた後、中国各地で軍閥が跋扈したのは阿片の密輸による資金があったからだし、蔣介石の国民政府は国家財政のほとんどを阿片に依存していた。中国共産党が国民党に圧迫されて逃げ回った「長征」を支えたのも阿片であり、共産党自ら阿片の生産を行っていた。

 

昭和6年(1931年)の満州事変を主導した関東軍参謀の石原莞爾は、事変直後に自ら起案した「満蒙統治方策案」において阿片の専売制を導入することを計画していた。後に満州国における阿片の専売益金は、満州国の歳入の15%を占めるに至った。満州に限らず、中国各地や東南アジアにおける日本陸軍の軍事行動を支えたのは、大規模な阿片の生産と販売だった。 

大蔵省から派遣されて満州国の国務院経済部次長を務めた古海忠之は、霞が関の興亜院との間に立って阿片専売の管理に当たった。その古海は「満洲国というのは関東軍の機密費作りの巨大な装置だった」と述べている。では、その機密費はどこへ消えたのか。特務機関の謀略資金に充てられたことは容易に想像できるが、それだけだったのだろうか。

 「満州裏史」(太田尚樹)は東條英機岸信介に視点を据えている。同書によると、第2次近衛内閣で首相秘書官を務めた細川護貞が残した日記に、東條が阿片の密売による巨額の政治資金を保有しているとの情報を得ていると近衛文麿が語ったと記されているという。実態はいまだ不明のままだ。

 阿片を巡る不透明さは戦後の東京裁判においても垣間見える。東京裁判で国際検察局は日本の戦争犯罪として阿片との関わりを追求したにも関わらず、上海で阿片売買を取り仕切った里見甫(はじめ)を逮捕しておきながら不起訴で釈放するなど、阿片がらみでは釈然としない対応を重ねた。

 

上記「阿片の中国史」によると、中華人民共和国の誕生後、わずか3年間で阿片が撲滅されたという。強力なキャンペーンと政治運動の嵐の中で流通ルートが遮断され、阿片市場が消滅したからだというが本当だろうか。

毛沢東は自ら主導した大躍進運動(非現実的な農工業政策)で6千万人とも言われる餓死者を出したとき、「1億人や2億人が死んでもどうということはない」と語った。今から10年ほど前には、中国高速鉄道の列車同士が高架橋の上で衝突して転落したとき、証拠隠滅のために乗客ごと車両をまるごと埋めてしまった国である。想像すると恐ろしい。

 

現在、阿片は、1961年に国連で採択された「麻薬に関する単一条約」により、その生産と供給が禁止されている。

だが、2001年の米軍侵攻以来、現在まで紛争が継続しているアフガニスタンにおいて、今も世界の阿片の約80%が生産されている。米軍と対峙しているタリバンの資金源の約半分は阿片収入だという。

ロシアは、米国がアフガニスタンにおける阿片の生産について取り締まりを徹底させていないため、同国での麻薬生産が懸念すべき規模で増大していると非難している。ロシア外相は「米国の姿勢は理解に苦しむ」と述べている。

  

 いまだに阿片は、その全容が不透明なまま、戦乱の陰に存在し続けている。