多摩川通信

昭和・平成の思い出など

ベトナムが独立にかけた思い

 

ベトナム戦争 誤算と誤解の戦場 (中公新書)

ベトナム戦争 誤算と誤解の戦場 (中公新書)

 

 

少年期を通じて「戦争」と言えばベトナム戦争だった。テレビやラジオのニュースでベトナム戦争について報じるアナウンサーの声はいつも固く暗かった。

 

ベトナムは、鉄鉱石、錫、無煙炭、木材、天然ゴムなどの豊かな資源に恵まれた国である。それが仇となって、19世紀後半の帝国主義の時代になると欧州列強の垂涎の的となった。1847年、フランスの侵略が始まり、1887年のフランス領インドシナ連邦の成立によってベトナムはフランスの植民地となった。

 

1945年9月2日、インドシナ共産党とベトミン(ベトナム独立運動武装組織)を率いるホー・チ・ミンは、仏印進駐によりインドシナを実力支配していた日本軍の敗戦の機を捉え、ベトナム民主共和国の独立を宣言した。

  

「ホーは新国家の承認を繰り返しトルーマンに求めた。ベトナム南部の天然の良港カムラン湾を海軍基地としてアメリカに提供してもよいとまで述べた。創設まもない国連に対しても、植民地支配の実態や自分たちの統治ぶりを訴え、公正な解決のための斡旋を依頼した。しかしいっさいは徒労だった。

アメリカも世界もベトナムの実情などほとんど知らぬまま、のちにベトナム戦争に育つ芽を摘む最初の機会をむざむざ失ってしまう。」(「ベトナム戦争 誤算と誤解の戦場」松岡完/中公新書

 

ホー・チ・ミンが起草したベトナム独立宣言は、アメリカ独立宣言(1776年)とフランス革命の人権宣言(1789年)に示された理念を高らかに掲げたものであったが、米国もフランスも共感を寄せることはなかった。

 フランスは、全貿易額の7割に関わる植民地インドシナを手放す気などなく、かつて自国が示した革命の精神の普遍性をベトナムに見出そうとはしなかった。

一方、米国は、社会主義圏の東南アジアへの拡張を防ぐためフランスによるインドシナ統治の継続に重きを置くあまり、ベトナム人の民族独立への熱望に対する理解に欠けた。

 

仏米両国は、ベトナム民族主義の高まりを軽視したことで情勢を深刻化させ、ついにはインドシナ戦争(1946年~1954年)及びベトナム戦争(1955年~1975年)での敗北へと突き進んでしまう。

 

ソ連と中国による人的・物的支援が北ベトナムベトナム民主共和国)の戦争継続に大きな役割を果たしたことから冷戦の代理戦争だったとも言われるが、直前まで植民地支配を受けていた国が先進国の軍事力に屈することなくそれを撃破してしまったのは、独立を求めるベトナムの強固な民族意識があったからこそであろう。同時に、現地の実情を見誤り、東南アジアの人々の民族自決の思いを軽んじた仏米両国の政策的失敗も大きかったと言える。

 

フランスは8年にわたってインドシナ戦争を戦ったが決着をつけられず、ベトミンを圧倒できると見込んだディエンビエンフーの戦い(1954年)で逆にあっけなく撃滅されたことで敗戦が決定的となり、インドシナからの撤退を決めた。

フランスを支援してきた米国は、なおもインドシナ社会主義への防波堤とすべく、1955年にベトナム共和国南ベトナム)を樹立させて支援を強化したが、ベトナム戦争の泥沼にはまり込むことになった。

 

米国は、ベトナム共和国軍を前面に擁立しつつ20年間も戦争を続け、最大時で54万人の米国正規軍を投入した上、終末期には1万5千機により6万トンもの爆弾を投下した無差別爆撃まで行った。しかし、建国以来初めてとなる敗戦を喫し、米軍は6万人の戦死者と30万人の戦傷者を出した。

米軍高官は、ベトミン軍は一旦撃滅しても次々と新たな兵力が湧き出て来たと語っている。米軍にとってかつて経験したことのないゲリラとの長期にわたる消耗戦だった。

 

ベトナムが被った損失は遙かに甚大で、戦死傷者300万人、民間人犠牲者400万人、行方不明者30万人、難民1千万人にのぼった(上記「ベトナム戦争」)。

ベトナムがこれほどの損失に耐えて戦争を戦い抜いた上、空爆で破壊され尽くした国土とインフラの再生に取り組み、現在では市場経済を取り入れたドイモイ政策の下で着実な経済発展を遂げているのを見るにつけ、ベトナム国民の民族自決にかけた思いが如何に強固なものであったかが窺える。

  

最終的に統一ベトナム社会主義国となったが、ベトナムが独立を果たす上でそれ以外の国家体制をとる余地はなかったのではないかと思う。長い植民地支配の下にあって民主主義の基礎や経験がない状況で、他にとり得る政治形態があっただろうか。

仮に民主主義国家を設立したとしても、ふたつの独立戦争を戦い抜くことなどできなかったに違いない。そのことは、南ベトナムが米国の手厚い支援にもかかわらず、ついに主権国家として自立できなかったことに現れている。

 

ベトナムにおいても共産党独裁の下で、お定まりの迫害や混乱が生じたが、独立の回復へと動き出したとき、他にとるべき道がなかったことは理解できる。その後実施されたドイモイ路線への転換(1986年)と市場経済の定着は、ベトナムの今後の新たな発展に期待を抱かせるものだ。