多摩川通信

昭和・平成の思い出など

M資金の実像

 

M資金詐欺」という古典的な詐欺事件がある。戦後混乱期のロマンと昭和の香りを色濃くまとって、ごく最近に至るまで繰り返し立ち現れては世間を騒がした。事件そのものは全くの詐欺なのだが、その道具立てとなった「M資金」の基になった財宝は実在した。

 

そんなことを言えば詐欺のお先棒担ぎかと横目で睨まれそうだが、終戦後、GHQが接収して日銀の金庫に保管させた大量の金銀白金ダイヤモンドがあったのは事実である。「M資金」という言い方は、GHQ経済科学局長だったマーカット少将がその貴金属等を管理していたことに由来するという説が有力だ。昭和27年4月、サンフランシスコ講和条約の発効と同時に、その貴金属等は大蔵省の管理下に移された。

 

そう言われてもなお怪しさは消えないであろう。しかし、本来、国家国民の資産であるそれらの物資について、戦後の混乱に乗じて横領や横流しが行われている疑いが浮上し、国会で長年にわたって真相の追及が行われたという事実もある。その審議内容は国会図書館がネットで公開している国会議事録で確認することができる。その審議を経て、昭和34年には立法措置(「接収貴金属等の処理に関する法律」)まで講じられたのである。     

 

では、そもそも、それらの貴金属等は一体どこから来たものなのかと言えば、戦争遂行のために国民が供出したものと、日本軍が戦地で略奪したものである。

 

供出物資は、昭和16年の金属類回収令と昭和19年のダイヤモンド買上実施要綱(軍需省)に基づき、国民からほとんど強制的に供出させたものである。ダイヤモンドは工業用に使用する意図だったがほとんど使われずに終戦を迎えた。

これらを含む軍需用保有物資については、終戦前日に駆け込みで行われた閣議決定により陸海軍が「隠密裡に」緊急処分を行うこととされた。何しろ隠密裡だったから処分の実態は定かでない。

 

略奪物資については、第7回国会 衆議院予算委員会(昭和25年3月6日)において、池田蔵相が「賠償庁の調査によりますと、金塊が約5億、銀が約20億、これらはともにオランダその他よりの奪掠品と認められ、すでに返還済みだそうでございます」と単位を省いて答弁している。

 

M資金が動き出す」(ダイアプレス)は、これらの貴金属等がGHQの手に渡った経緯に関し、当時の二つの報道を取り上げている。

昭和20年10月、朝日新聞は、GHQが供出物資である金銀白金を接収して日銀の金庫に保管させたと報じた。だが、その記事にはダイヤモンドについては何も書かれていなかった。

また、昭和21年4月、GHQ東京湾芝浦沖の旧陸軍越中島糧秣廠の掘割から大量の金塊を引き揚げたという出来事があり、UP通信の配信により米国でまず報じられ、追随して朝日新聞が報じた。この金塊は日銀の金庫に保管されたと言われたが、その保管を証するものはなかった。

これらの経緯のいずれにおいても、あるはずの貴金属等の行方について実は判然としない点があったという事実が浮かび上がる。「M資金」の幻影が生じた一因である。

 

昭和22年2月、隠匿退蔵物資の調査・摘発を目的として、経済安定本部に隠退蔵物資等処理委員会が設置された。副委員長として実務を取り仕切ったのは、衆議院議員世耕弘一だった。

第92回帝国議会 衆議院決算委員会(昭和22年3月29日)で世耕は、日本銀行の地下金庫にダイヤモンドが約5升(約9リットル)あるとの情報提供があった一方で、その一部が密かに売買されているという別の通報もあったと述べた。

 

第7回国会 衆議院予算委員会(昭和25年2月16日)では、世耕は「東京湾で引き揚げられた金銀白金を政府はどのように処理しているのか」と大蔵大臣に迫った。

池田蔵相は「寡聞にして私は聞いておりません」といなしたが、世耕は「大臣が知らぬなら事務当局が出てきて説明せよ」とがぶり寄った。

やむを得ず理財局長が土俵に上がり「終戦後、陸軍から、臨時貴金属数量等報告令に基き銀塊約30トンが東京湾にあるという申告が出ております」と、引き揚げられたのは銀塊のみだったと答弁した。

ところが、3月6日の衆議院予算委員会において、世耕が引き揚げに関与した関係者の証言を挙げてなおも追及したところ、池田蔵相はしぶしぶ金塊もあったと認めた。それが前述のやけくそのような答弁だったのである。そうまでして金塊の存在を隠そうとした理由は何だったのだろうか。

 

国会の調査と審議は続けられ、第19回国会 参議院大蔵委員会(昭和29年4月9日)において中野四郎衆議院議員は、日銀及び造幣局に保管されている接収解除の貴金属等の全体像は、純金102トン、合金26トン、銀2,365トン、白金1トン、ダイヤモンド16万カラットであるとした上で、接収解除物資として他にエメラルド、猫目石、瑪瑙、翡翠といったものが約4万個あったはずだが消えていると述べた。

 

その後、昭和34年に制定された「接収貴金属等の処理に関する法律」に基づき、貴金属等の返還と処分が進められた。その処分の経緯については、財務省の広報誌「ファイナンス」2005年10月号に記載がある。

その記事の中に「接収貴金属等の数量等の報告調べ」という表があり、その内容は上記の中野四郎が説明した数量と大きく違わない。これがいわゆる「M資金」の捉えられた実像と言えるだろう。

それらの売却は昭和41年から逐次実施され、すべての売却が終わったのは平成17年であったという。