多摩川通信

昭和・平成の思い出など

ドレフュスの声

 

ドレフュス事件」は19世紀末のフランスで発生した軍事情報の漏洩にかかわる冤罪事件である。1通の手紙から始まったその事件は次第に奇怪な展開を遂げて膨れ上がり、フランスの国論を二分して政府と軍の存立を揺るがすほどの国家的事態へと発展した。

 

その背景にはいくつかの歴史的要因があった。第1に、普仏戦争(1870年~1871年)でフランスはプロシアに大敗を喫し、第二帝政の崩壊やアルザス=ロレーヌ地方の割譲といった多大の犠牲を払った上、ドイツ統一により隣国に強大なドイツ帝国が出現したこと。第2に、フランス革命(1789年)における人権宣言を契機としてユダヤ人に市民権が認められたものの、反ユダヤ感情は未だ根強いものがあったこと。第3に、新聞を中心としたジャーナリズムが広く世論形成を主導する存在に発展していたことである。

 

この事件の顛末をざっと見渡してみたいと思って手にとったのは「ドレーフュス事件」(ピエール・ミケル/白水社文庫クセジュ)である。また、この事件に関する今日までの膨大な研究の到達点を知り得るものとして「ドレフュス事件 真実と伝説」(アラン・パジェス/法政大学出版局)も読んでみた。結果思うのは、発端となった事件を個人的犯行という形に収めようとしてもとうてい無理だということだ。

 

事件の概要は次のとおりである。

1894年9月、フランス陸軍参謀本部の情報部が1通の手紙を入手した。在仏ドイツ大使館の駐在武官に宛てられた差出人不明の手紙で、その内容はフランス陸軍に関する5点の文書(うち3点は砲兵関係)が入手できると知らせるものだった。このことはただちに陸軍大臣を通じて大統領、首相、法務大臣外務大臣に伝えられた。

10月、陸軍大学を卒業して参謀本部で実習中だったユダヤ系のアルフレッド・ドレフュス砲兵大尉(35歳)が手紙の差出人として特定されスパイ容疑で逮捕された。あやふやな筆跡鑑定が証拠とされた。

11月、反ユダヤ主義ナショナリストの新聞がドレフュスの逮捕を大きく報じた。

12月、ドレフュスは軍法会議において国家反逆罪で終身禁固刑を宣告され、ギアナ沖の監獄島に収監されることとなった。

 

1896年3月、事件後に参謀本部情報部長に着任していたピカール中佐のもとに新たに入手された手紙が届く。ドイツ大使館からの消印のない手紙で、宛名は「エステラジー少佐」と記されていた。エステラジーはフランス陸軍参謀本部に勤務していた。内容は情報の督促だった。密かに調査を進めたピカールエステラジーこそ真犯人でありドレフュスは冤罪だったことを確信する。

同年9月、ピカール参謀本部のボワデッフル本部長とゴンス次長に対し調査結果を報告しエステラジーの逮捕を進言した。しかし、ゴンスからは逆に「忘れるように」と忠告される。11月、ピカールは情報部長を解任されチュニジアに赴任させられた。

 

1897年7月、ピカールは友人である弁護士ルブロワに自分が行った調査結果を伝えた。ルブロワからそれを伝え聞いた上院副議長シュレール=ケストネールは、大統領と陸軍大臣に対しドレフュスに対する再審の実施を働きかけたが効果はなかった。

1898年1月、エステラジー軍法会議にかけられたが直ちに無罪判決が下された。エステラジーはその後、英国に亡命した。

 

これに対して敢然と異を唱えたのが作家エミール・ゾラだった。エステラジーの無罪判決の2日後、ゾラは新聞に「私は告発する」と題した大統領あての激烈な抗議文を掲載した。その内容は軍首脳陣に対する弾劾だった。

1894年の事件発覚以来、新聞各紙は、軍を擁護し反ユダヤの立場に立つものと、軍と政府に対する不信感をあらわにするものとが、それぞれに世論を主導してきたが、「私は告発する」は膨れ上がった世論の圧力に火をつけた。以後、世論は新聞論調を上回って先鋭化し、全フランスをふたつに引き裂いて政府と軍を呑み込んでいく。その結果は1898年5月の下院総選挙における保守派の敗北という形になって現れた。

ゾラは軍首脳に対する名誉棄損罪で起訴され、1898年7月に禁固1年の刑が確定し、英国に亡命した。国際世論はフランスに対する批判の姿勢を強めた。

 

新内閣の陸軍大臣はドレフュスの裁判における証拠書類の再調査を命じた。その結果、手紙以外は参謀本部情報部のアンリ中佐による偽造だったことが判明した。アンリは逮捕され、翌日、独房で死体で発見された。剃刀で喉を切って自殺したとされているが、その剃刀は閉じられたまま左手に握られていた。しかもアンリは右利きだった。司法解剖は中止された。

1898年9月、閣議でドレフュスの再審が決定された。1899年9月、軍法会議は再び有罪の判決を下したが、大統領令で特赦が認められた。

1903年、ドレフュスは破棄院(フランスの最高裁)に対し無実を求めて再審請求を行った。1906年、破棄院は軍法会議の判決を破棄してドレフュスの無罪を宣告した。

 

 

この事件の経緯を見ると決定的におかしい点がある。1896年9月にピカールが捉えた事実を参謀本部長と次長に報告した時の2人の対応だ。軍事情報の漏洩に関して新たな事態が発覚したのだから、普通ならエステラジーの周辺をはじめとして徹底的な内部調査が行われるはずだ。だが、そのような対応がなされたことを窺わせる事実の断片すらないというのはどういうことか。当時、普仏戦争の敗北で出現したドイツ帝国はフランスにとって最大の脅威であったはずだ。ドイツとの次の大戦は目前に迫っていたのである。

考えられるのは常識的に言ってひとつだろう。フランス陸軍中枢はこの事件の内実をはじめから掌握していたということだ。そして、その内実としては2つのことが考えられる。ひとつは、事件の中核である情報漏洩がそもそも存在せず、何らかの意図で作り上げられた虚構が制御不能な大事件へと発展してしまったという可能性。もうひとつは、陸軍中枢自体が情報漏洩に関する深刻な組織的問題を抱えていたという可能性である。

 

前者は十分にあり得る。この事件の発端は手紙である。2通の手紙が事件の展開に大きな役割を果たしたのだが、その入手の経緯については様々な説があるものの実は不明なのである。しかも2通目の手紙は当時のフランスにあった特殊な速達便で送られたものであったにもかかわらず消印がなかった。発端となった手紙そのものが捏造だった可能性は高い。

後者については、「ドレーフュス事件」(ミケル)に無視できないいくつかの証言が記されている。ルグラン=ジラルド将軍は回想録で「ロー将軍が情報漏洩に関与していた」と書き残しているという。ロー将軍というのは普仏戦争で捕虜となって入獄した経験がある人物で、戦後は参謀本部に勤務した後、ドレフュス事件発生時には陸軍省の大臣官房長の職にあった。

また、フランス外務省のパレオローグは、1886年から1896年にわたって追及されていた一連の情報漏洩事件があったと述べ、その中枢人物の一人としてロー将軍を示唆していた。パレオローグは他にも、パリ軍事総監だったソーシエ将軍が事件発生時の大統領カジミール=ペリエに対し「ドレフュスは犯人ではありません」と断言していたとも証言している。

 

 

事件の展開に目を奪われてしまって、その中心にいるはずのドレフュスの存在感は薄れがちだが、「ドレーフュス事件」に記されている陸軍大学の評価の記録によれば、かなり優秀な軍人で将来を嘱望されていたことがわかる。次のとおりである。

「体格優、健康優、近視、性格陽性、教育程度高し、一般教養はなはだ広し、軍事理論優秀、軍事実務優秀、軍事行政優秀、ドイツ語に堪能、乗馬を良くする、有為の青年、優秀の記載ある陸軍大学卒業証書を所有、優秀な将校にして頭脳明晰、よく問題の核心をとらえ仕事は迅速にして仕事を好む、参謀本部の勤務に最適と認む」

 

ドレフュス事件 真実と伝説」によればフランス国立図書館のサイトでドレフュスの声を聴くことができるというので聴いてみた。言語学者の勧めで1912年3月27日にソルボンヌの研究室で録音されたものだという。

gallica.bnf.fr

しっかりした張りのある声が鮮明に聴こえる。同書によれば、自分を支えてくれた全ての人々に向けて、彼らの行動は「人類の歴史の中で一転機を画し、自由や正義、社会的連帯についての思想のための大いなる進歩の時代へ向けて、堂々たる一歩となる」と語りかけているという。

ドレフュス本人の声を耳にしてみると、俄かにこの事件の実在性が立ち現れてきて、決して現代と無縁のものと見ることはできないという思いが湧き上がってくる。