多摩川通信

昭和・平成の思い出など

玉砕の実情

 

1943年(昭和18年)5月30日午後5時、大本営アッツ島守備隊が「全員玉砕せるものと認む」と発表した。アッツ島守備隊は最後の突撃を行う前に電信装置を破壊したため、司令部は米海軍の平文による通信を傍受することによって戦況の把握に努め、米海軍省が30日に「アッツ島日本軍の残存部隊は全滅した」と公表したのを踏まえて上記の発表となった。

 

同年7月、キスカ島守備隊5千名の撤退作戦が実行され、軍艦の数と航空戦力で勝る米軍の隙を突いて全員の撤退をやり遂げた。この時のある逸話が今日にいたるまで語り継がれている。艦艇がアッツ島近くを通りかかった時、島から「万歳」という声が上がったのを何人もの将兵が聞いたというのである。

 

これは空耳や作り話だったとは言いきれない。どういう条件が重なれば島の歓声が沖の艦艇に届くかは分からないが、アッツ島守備隊の残存兵たちが日本の艦隊を目にして思わず声を上げて見送ったことはあり得る。

 

米軍が戦後公表した資料によれば、戦闘は小規模ながら5月30日以降も続いていた。アッツ島守備隊は全滅しておらず、残存兵が戦闘を続けていたのである。山中に潜伏した狙撃兵など何人もの日本兵が戦闘を継続し、最後の者が投降してきたのは9月だったという。

 

防衛庁防衛研修所戦史室が1966年から1980年にかけて編纂を進めた「戦史叢書」はその事実を記録している。(「戦史叢書第21巻 北東方面陸軍作戦<1> アッツの玉砕」456頁)

http://www.nids.mod.go.jp/military_history_search/SoshoView?kanno=021

 

 

米国領アリューシャン列島に属するアッツ島は、年間平均気温が3度台という厳しい環境で、アッツ島守備隊は補給が滞って十分な食糧も得られず苦労した。そんな環境で残存兵たちはどうやって生き延び、戦い続けたのか。

 

その答えの一端はNHKがかつて収録したアッツ島生還者たちの肉声の中に見出すことができる。夏場はヨモギやチガヤの枯草の中に潜り込めば暖かかったという。また、清流があって水には困らなかったし、海岸で海苔や昆布、貝などを採ることもできたという。

https://www2.nhk.or.jp/archives/shogenarchives/shogen/movie.cgi?das_id=D0001130042_00000

 

だが、それだけでは戦えない。残存兵が最後まで戦い続けた背景には、ある指揮官の存在が大きかったと思われる。1943年4月18日に山崎保代(やまさき やすよ)陸軍大佐(玉砕時51歳)が着任するまでの間、部隊長として厳冬期をまたいで2,600名を超える部隊の士気を保ち続けた米川浩(よねかわ こう)陸軍中佐(玉砕時45歳)である。

現地を視察し、戦況を見守った参謀たちの中には、山崎隊長の決然たる陣頭指揮の潔さとともに、守備隊の基礎固めに尽力した米川中佐の功績を称える者が多かった。

 

米川中佐は秋田県の生まれで、佐竹藩の主席家老を代々務めた梅津家の血筋だった。磊落な人柄で人情に厚く、人に慕われるタイプの人物だったようだ。秋田工業学校の配属将校だったときには、「俺は酒で失敗して陸士の同期より進級が遅い。酒と女は身を滅ぼすもとだから用心せよ」とよく訓示していたという。

アッツ島は強い風が吹く。ある夜、米川中佐の幕舎が吹き飛ばされたとき、硬い岩盤に塹壕を掘り進む過酷な作業で疲れ切って眠っている兵隊たちを起こさないよう、朝になるまで寒風に耐えて外にいたというエピソードが、米川という人物をありありと物語っている。

 

 

それにしても、何のために日本軍は北辺のアッツ島キスカ島を占領(1942年6月8日上陸)したのか。その目的については、陸軍・海軍それぞれにもっともらしい目的があったように言われているが、海軍が主導した作戦だったという見方に説得力がある。

 

海軍は南方におけるミッドウェー作戦の陽動作戦として立案したのだが、そもそも成功のための決定的な条件を欠いていた。艦隊を2方面に展開するために必要な燃料が確保できていなかったのだ。必要な油は後から東南アジアの占領地で確保できるといった希望的観測で作戦を立案し実行したことに慄然とせざるを得ない。いかに陽動作戦とは言え乱暴もいいところだ。

 

米軍による艦砲爆撃と航空爆撃に持ちこたえられなくなって撤退が検討されたが、海軍は油が足りないから救援艦を出せないと言い出した。結局、陸軍主体のアッツは見殺しにするが海軍陸戦隊が多数を占めるキスカは助けるという身も蓋もない結論になった。

 

アッツ島守備隊に対して玉砕やむなしとの訓電が発せられた時、昭和天皇が漏らした怒りを侍従武官が記録している。その怒りの言葉は、「中央統帥の欠陥を第一線将兵の敢闘をもって補い、第一線の犠牲において統帥を律しある実情となりあり。甚だ遺憾なり」というものだった。

 

この一件は「玉砕」という美名をまとわされて、その後に続いた多くの玉砕に道を開くものとなった。台湾有事のリスクが高まりつつある今、当時と同じような失敗が無反省に繰り返されるようなことがあっては堪ったものではない。