多摩川通信

昭和・平成の思い出など

原爆の経緯と責任

 

ロバート・オッペンハイマー 愚者としての科学者」(藤永茂ちくま学芸文庫)は、「原爆の父」として歴史に名を刻んだ米国の理論物理学ロバート・オッペンハイマーの生涯を原子爆弾の開発に焦点を当てて記したものである。著者はカナダ・アルバータ大学で長年にわたって理学部教授を務めた量子化学者である。

 

この本を読んで、米国による原爆開発は避けることのできないことだったのだと痛感した。1938年に人為的な核分裂を実現した物理学の発展によって、原子爆弾の開発は目前のものとなった。各国の物理学者たち、特にナチスの迫害を逃れて欧米各国に移住した学者たちは、ナチスが先んじて原子爆弾を手にしてしまうことを心底恐れた。

 

現にドイツは原爆開発に着手していた。ソ連もスパイとなった英国の物理学者を通じて中核技術の入手を図っていた。大日本帝国も例外ではない。理化学研究所が軍の依頼を受けて原爆研究に着手したのは1941年4月であり、仁科芳雄を中心に研究が進められ、理論的には開発可能というめどが立っていた。湯川秀樹も戦争末期ではあったが原爆研究に加わった。

 

もし、ナチスソ連が米国よりも先に開発に成功し原爆を独占していたら、今頃、我々はどんなに惨めな世界に生きていたことか。日本が原爆を製造できた可能性は大きくはなかったかもしれないが、仮に製造に成功していたら日本はためらわず原爆を投下しようとしただろう。仮に投下できたとして、その結果、日本と日本国民が今よりましな状況になり得たとは到底思えない。軍部の増長が続いて、さらに悲惨な状況に陥ったことだろう。

 

毎年8月、原爆犠牲者への慰霊が行われるが、日本人は本当に反省すべきことを反省してきたのだろうか。本当に追及すべきは原爆を落とされた責任だったはずだ。開戦した以上勝たねばならなかったのだし、そもそも勝ち目のない戦争を始めてはならなかったのだ。さらに言えば、日本の敗戦がもはや避けられないことは庶民も知っていたのだから、原爆を落とされる前に降伏しなければならなかったのだ。保身と面子のために降伏を遅らせた軍部の責任は大きい。

そのそれぞれの局面において判断を誤った政府と軍部の責任者たちがいたのである。敗戦が十分に歴史となった今こそ、それらの責任者たちの個々の名前を挙げて、誰がどのように誤ったのかを明らかにし、過ちの全体像を具体的に追及しなければならない。

 

亡くなった原爆犠牲者たちが望んでいるのは単なる慰霊ではない。そのことは日本人誰もが思っていることだ。子や孫、後の世代が、同じ過ちの繰り返しによって再び惨禍にさらされることがないよう、政府と軍部が事に当たって正しい判断を下すことをこそ望んでいるはずだ。

広島の原爆死没者慰霊碑には「過ちは繰返しませぬから」と刻まれている。いかにも国民一般の総意を表わしているように読めるが、これは欺瞞である。国民一般の抽象的な反省の前に、敗戦に導いた政府と軍部の責任者たちの具体的な過ちが徹底的に追及されなければならなかったはずだ。その具体的な反省なしにどうして今後の的確な判断が担保されるだろうか。



原爆開発に至る一連の物理学上の進展を列記すれば以下のとおりである。

911年 ラジウム放射線(アルファ粒子)を原子に当てることにより、原子の中心に原子核があって周りを電子が取り囲んでいる原子構造が発見された。

1918年 原子核を構成する粒子で正の電荷を持つ陽子が発見された。

1919年 窒素にアルファ粒子を当てると酸素と陽子ができることが発見された。原子核の人為的な変化(核反応)の実現だった。

1932年 原子核を構成する無電荷の粒子である中性子が発見された。

1934年 アルファ粒子をアルミニウムに当てることによって放射性の燐ができることが発見された(人工放射性元素の登場)。

同年、アルファ粒子の代わりに中性子を照射することにより、原子核電荷に反発されずに様々な元素で核反応を起こし得ることが確認された。

1938年 ウランに中性子を照射した結果、バリウムの生成が確認された。

1939年1月 このバリウム生成はウランの「核分裂」が生じた結果であることが証明されるとともに、核分裂は巨大なエネルギーを発生することが予測された。

 

核分裂の過程で余分の中性子が放出され、ウラン原子の連鎖的な分裂(連鎖反応)が進行するものと考えられた。それは巨大な爆発力をもつ新型爆弾の登場を予想させるものだった。これらの発見は公表されていたため、欧州の多くの物理学者はヒトラー原子爆弾を手にすることを極端に恐れた。

そのため学者たちは様々なルートで米国政府に対して原爆開発に着手するよう進言した。ローズヴェルト大統領に届けられたアインシュタインの手紙もそのひとつである。英国、ドイツ、ソ連でも物理学者たちが政府に原爆開発を進言した。

 

当初、米国政府の反応は鈍かった。その米国の姿勢を変えたのは英国政府に提出された学者たちの意見書の内容だった。1941年10月9日、ローズヴェルト大統領は、原爆開発に向けて、副大統領、陸軍長官、陸軍参謀総長、学者からなる最高政策グループの設置を決定した。1942年、原爆開発計画は軍部に移管された。マンハッタン計画の始まりである。1943年4月15日、ニューメキシコ州ロスアラモス国立研究所が設置された。所長に任命されたのはカリフォルニア工科大学の物理学教授だったロバート・オッペンハイマーである。

 

ロスアラモスでは2種類の原爆の開発がすすめられた。ウランを用いるものとプルトニウムを用いるものである。前者が広島に、後者が長崎に投下された。ウランの濃縮とプルトニウムの生産は米国内で行われた。ドイツと日本はウラン・プルトニウムの生産ができずに挫折した。

 

ドイツは1944年11月の時点で原爆開発の失敗が確定しており、そのことは米国でも知られていた。さらに1945年初頭、ドイツの敗北が決定的になると、原爆の開発を継続することに対し疑問の声が上がるようになった。同年5月7日、ドイツは降伏した。

このとき米国では、日本への原爆投下に代わる非軍事的なデモンストレーションの可能性が検討された。しかし有効なデモンストレーションが見出せず、6月、日本への投下が決定された。

マンハッタン計画の統括責任者であるグローヴス将軍は、1944年3月の時点で既に「原爆の目的はソ連を抑え込むことだ」という考えを明らかにしていた。日本への原爆投下は、日本を降伏させるためではなく、ソ連に対して原爆の威力を見せつけるためだったのである。

 

そうであっても、原爆を投下された責任の方が大きい。その責任を負うべきは降伏を遅らせた日本の軍部である。国体護持のためにソ連の仲介を期待したなどというのは言い逃れに過ぎない。既に見込みがないことさえ察知できないようであれば、そもそも戦争などしてはいけなかったのだ。さらに、1945年6月8日の時点でなおも本土決戦の方針を策定したのは、国民の人命軽視もはなはだしい。軍部をこれほどまでに思い上がらせ、視野の狭い軍人ばかりを育成してしまった罪を日本人は今もなお見つめ直す必要がある。