多摩川通信

昭和・平成の思い出など

オリンピック

 

オリンピックが最初に開催されたのは紀元前776年である。その頃、ギリシャ全土で疫病が蔓延していた。まるで今と似たような状況である。この疫病を鎮めるため、アポロンの神に神託を求めると「争いをやめて競技会を復活せよ」という神託が下った。

この神託に従い、ギリシャの都市同士で繰り返されていた戦争を一旦休戦にして、最高神ゼウスの神殿があったオリンピアの地で、8月に競技会を開催した。

この最初のオリンピックで行われた競技は約192メートルの短距離走のみで、優勝者の名はコロイボスと記録されている。

神託に「競技会の復活」とあったことから、その前からすでに何らかの競技会が行われていたと見られているが、その記録は発見されていない。

 

以後、古代オリンピックは、西暦393年の第293回大会まで約1200年にわたって途切れることなく4年ごとに戦争をやめて開催された。ギリシャを属州としたローマ帝国が西暦392年にキリスト教を国教と定め、同394年に異教の儀式を禁止したため、第293回が古代オリンピック最後の大会となった。

 

古代オリンピック 全裸の祭典」(トニー・ペロテット/河出文庫)は、ギリシャの古典やパピルスに記された各種の記録、さらには壺に描かれた絵などに基づいて、古代オリンピックの実像をありありと再現している。

オリンピアの競技場の遺跡は現存しており、長辺約200メートルの長方形の競技場の四方を低い土手が囲んでいる。

後には競技種目が増えて5日間の大会となり、ギリシャ本土のみならず地中海周辺の各地から4万人以上の観客がオリンピアに集まった。女性は競技にも観戦にも参加することは認められなかった。

群衆を目当てに食べ物やワインなどを売る商人も集まり、様々な出店が無秩序に並んだ。オリンピックにおける宣伝効果は当時からすでに認識されており、詩人や作家、哲学者などが自作を朗読し、画家は新作を展示した。歴史家のヘロドトスはゼウス神殿で著作を朗読して名声を高めた。

 

オリンピアは山間の奥地にあった。夏は雨が少なく水に恵まれなかった。そのため選手も観客も渇きに苦しんだ。「万物の根源は水である」と説いた哲学者のタレスは、オリンピック観戦中に脱水症で死んだ。

群衆を受け入れる宿泊施設や入浴施設はなくトイレもなかった。干上がった川は4万人の糞便であふれ、大量の生ごみも放置された。そんなあり様なので病気になる者が続出した。

オリンピック観戦の不快さは大変なもので、上記「古代オリンピック」によると、言うことを聞かない奴隷に対して奴隷主は「オリンピックの観戦に行かせるぞ」と脅したものだという(本当かいな)。

 

それでもオリンピックは1200年にわたってギリシャ世界最大の祭典であり続けた。運動自体の爽快さを求め目標を達成する喜び、そしてそれを見る楽しみが多くの人々を惹きつけてやまなかったのだろう。

  

19世紀になってクーベルタンがオリンピックの再興を提唱し、1896年、アテネオリンピックの開催によって近代オリンピックが幕を開けた。以来、回を重ねるごとにオリンピックの枠組みは様々な形で拡大されてきた。

女性への門戸開放はそのひとつである。1900年のパリ大会で初めて女性の出場(テニス、ゴルフ)が認められて以降、女性が出場できる競技種目は拡大してきた。特に鮮烈だったのはマラソンである。

 

オリンピックで最初に女子マラソンが行われたのは1984年のロサンゼルス大会である。この大会でスイスのガブリエラ・アンデルセンは、優勝した選手がゴールしてから約20分後に競技場に現れた。テレビ放送はその異様な状況をありのままに伝えた。

不自然に体を傾けたままよろけるように歩き続けたが、その表情からは意識が飛びかけているのが明らかだった。脱水症状だった。ドクターと係員が駆け寄ったが、そのまま競技場を一周してゴールに倒れ込んだ。アンデルセンは後に「女子マラソンの実施が間違っていないことを示したかった」と語った。その思いは今、確かなものとして実っている。

 

このロサンゼルス大会に先立って、日本では1979年に第1回東京国際女子マラソンが開催された。国際陸上競技連盟が公認した世界最初の女子マラソンだった。当時すでに女性ランナーが実績を示し始めていたが、女性に過酷な競技はふさわしくないという意識がまだ社会一般に根強くあった。それを反映してマスコミの注目度は異様に高かった。

日本人選手32人・外国人選手18人が参加し、優勝は42歳の母親である英国人、日本人最高位は7位だった。次々にゴールする女性たちの背中は雄弁に語っていた。「こんなのへっちゃらよ」と。

後の東京国際女子マラソンでは衝撃的な出来事もあった。1985年11月の第7回大会でのことだった。東ドイツのビルギット・ワインホルト(21歳)は、レース中に生理が始まってしまった。しかし、下半身を血に染めて走り抜き、2位でゴールして恋人であるコーチの胸に飛び込んだ。その映像は女性の強さと勇気を語って余りあるものだった。

 

ひとたび意識の枠が壊れてしまうと、後は何でも来いである。2012年のロンドン大会ではついに最後の砦だったボクシングでも女性の参加が認められ、すべての競技種目が女性に開放された。

  

オリンピックは冬季競技にも拡大した。第1回冬季オリンピックは、1924年シャモニー(フランス)大会だった。

パラリンピックの開催は1960年のローマ大会が第1回である。パラリンピックの起源は身体障害者リハビリテーションだったが、今では見ごたえのある競技会として成立している。 

パラリンピックでは障害の種類と程度によって競技参加者が細分化されている。できることとできないことがあるなら、できる範囲でやろうじゃないかということだ。まさに人間の叡智である。

 

障害者スポーツのオリンピックとしては、パラリンピックの他にデフリンピック聴覚障害者)とスペシャルオリンピックス知的障害者)があり、いずれも国際オリンピック委員会が「オリンピック」の名称使用を許可している。

スペシャルオリンピックスは今のところ、参加する競技者よりも競技会を支えるボランティア活動の方に力点が置かれているように見えるが、できる範囲で競技が成立するというパラリンピックの経験を活かせば、いずれ障害者自身が主役になる大会が実現される日が来るだろう。

  

オリンピックは人間の喜びの表現である。目前に迫った東京2020オリンピックは、コロナとの闘いというかつてない困難の中でいまだに大揺れに揺れているが、どのような形であれ開催可能な範囲があるはずだ。開催に向けて苦心を続けている人々に心からエールを送りたい。