多摩川通信

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万葉集講義-最古の歌集の素顔 (中公新書)

万葉集講義-最古の歌集の素顔 (中公新書)

  • 作者:上野 誠
  • 発売日: 2020/09/18
  • メディア: 新書
 

 

万葉集はすべて漢字で書かれている。

日本で漢字が使われるようになったのは4世紀末から5世紀初めだという。いにしえより日本固有の言葉で声に出して歌われていたものが、文字で表記できるようになったことによって歌集が成立し、後世へと伝わることになった。

 

万葉集講義 最古の歌集の素顔」(上野誠中公新書)は、和歌の根底に5世紀以前の人びとが口から耳へ、耳から口へと歌い継いでいた日本語の歌々があると言う。

 それらの歌々が男女の掛け合いや宴の場で歌われていたのだとすると、きっと楽しげな旋律を伴っていたにちがいない。歌の内容自体が楽しいものであったはずだし、何より歌の詠み手自身が心から楽しんでいたであろう。

 

 たとえば、額田王(ぬかたのおおきみ)と大海人皇子(おおあまのみこ/後の天武天皇)が詠み交わした歌である。額田王は、初め大海人の妃となって十市皇女(とおちのひめみこ)をもうけたが、後に大海人の兄である天智天皇の妃になったといわれている。

 

「あかねさす 紫野行き 標野行き 野守は見ずや 君が袖振る」(額田王

  仮訳: だめよ 何をなさるの 私はもう人妻なのよ

 

「紫草の にほへる妹を 憎くあらば 人妻ゆえに 我恋ひめやも」(大海人皇子

  仮訳: 君の匂いが忘れられないんだ 人に見られたってかまわない

 

これは大変な事態である。今ならば週刊文春がほうっておかない。このとき、額田王は三十路の女盛りだった。この歌には「天智天皇の7年5月5日、天皇は蒲生野で狩を催された。皇太弟(大海人)・諸皇族・内臣および郡臣がことごとく付き随った」という注が付いており、状況証拠はそろっている。

 

かつてはこの歌を根拠として、額田王をめぐる天智天皇大海人皇子との不和が壬申の乱(古代日本最大の内乱)の遠因になったという見方もあったが、この2首は「相聞の部」には入っていないことから、狩の宴での座興の歌だったと見るのが今日の通説だという。 

 

額田王の歌は万葉集に12首が収められており、その内容からは才気煥発な女性像が浮かぶ。しかし、それにしても、宴の主である天皇と群臣の前で歌い交わしたものとしてはいかにも場違いな内容であり無理がある。むしろ第三者による創作を疑うべきであろう。

 

あやしいのは大伴家持(やかもち)である。家持は額田王らから百年近く後の人であり、万葉集全20巻の最終編纂者とみなされているが、そもそも家持には他にも疑わしい点がある。  

万葉集には笠郎女(かさのいらつめ)という詠み手が登場する。その歌として29首が収められているが、そのすべてが家持に贈った歌だというのだ。極め付きは次の1首である。

 

「思ひにし 死にするものに あらませば 千たびぞ我は 死に還らまし」(笠郎女)

  仮訳: 恋に焦がれて死ぬこともあると申しますけれど あなたのせいで私はもう千回も死んでしまいました

 

「郎女」とは若い女性のことである。若い女性からこんなことを言ってもらえたら至福の限りであろうが、自作自演の疑いが濃厚である。29首のすべてが、いや、笠郎女という存在自体があやしい。編纂者自身が面白がっている様子が目に浮かぶ。

  

万葉集講義」では詠み手のシニカルな内心がにじみ出ているような歌が紹介されている。大伴旅人(たびと)の送別の宴で詠まれた地方官人たちの歌である。

 旅人は家持の父親であり、晩年に太宰帥(大宰府の長官)として筑紫の大宰府(九州・壱岐対馬を管轄した役所)に赴任した。大いに酒を好んだ人物として知られている。

大宰府で旅人が催した梅花の宴で詠まれた一連の歌が万葉集に収められており、その序文の「初春の令月 気淑(よ)く風和らぐ」は「令和」の典拠となった。

 

その旅人が奈良の都に帰任することとなり送別の宴が開かれたのだが、「万葉集講義」は宴が開かれた場所が「書殿」だったと記されていることに目を留めている。「書殿」とは書庫である。わざわざ書庫で別れの宴を行うとは、何やらいわくありげである。その宴で次のような歌が詠まれた。

 

 「人もねの うらぶれ居るに 龍田山 御馬近づかば 忘らしなむか」

  仮訳: 私らは寂しがっていますけど 都に近づくほどに忘れられてしまうのでしょうね

 

「万代に いましたまひて 天の下 奏したまはね 朝廷去らずて」

  仮訳: どうぞ万年も生きてください そして天下のまつりごとに励んでください ただし都からは離れずに

 

律令制の下で都から派遣された高位官人といえども、在地の有力者や地方官人たちの協力がなければ仕事ができなかったであろう。これらの歌の皮肉な趣は、地方勢力の確固たる実力と矜恃を現わしていると見ることもできる。

万葉集編纂にあたって父親を揶揄するような歌をもあえて採取したところに、歌を面白がった家持の面目躍如たるものがある。