多摩川通信

昭和・平成の思い出など

I Have a Dream

 

「 われわれは今日も明日も困難に直面するが、それでも私には夢がある。それは、アメリカの夢に深く根ざした夢である 」

 「私には夢がある」(1963年)|アメリカンセンターJAPAN

 

 1963年8月28日、首都ワシントンのリンカーン記念堂の前で、公民権運動指導者のキング牧師は25万人の群衆に向かって語りかけた。リンカーン大統領による奴隷解放宣言(1863年1月)から100年を記念し、黒人差別の撤廃を求める人々が集結していた。 

その演説は16分にわたる長いもので、有名な「私には夢がある」は9回繰り返された。幸いなことにYouTubeでこの演説全体を視聴することができる。聴衆は「私には夢がある」が繰り返されるにしたがって高揚していく。

 

リンカーンゲティスバーグの演説はもっと有名だが、「人民の人民による人民のための政治」は短い演説の最後に控え目に一度だけ出てくる。

ゲティスバーグ演説 (1863年)|アメリカンセンターJAPAN

それでもこの言葉が歴史的なものとなったのは文書で読まれたからだ。

その演説が行われた1863年11月19日、リンカーンは発熱して体調がすぐれなかった。そのため、わずか2分ほどの演説だったが声はか細く、ほとんどの人は何を言っているかわからなかった。大統領の演説が始まったことにすら気づかなかった者も多かった。近くでメモを取った新聞記者が記事にしてはじめて人々は演説内容を知った。

 

リンカーンによる奴隷解放宣言は黒人の人権回復の原点となった画期的なものだったが、南北戦争1861年~1865年)の最中に公布されたものであり、実は南部諸州を連邦に引き戻すため経済的・国際的に孤立させることに主眼があった。そのことをリンカーンは書簡で次のように述べた。

「私の最大の目的は連邦を救うことである。奴隷制度を保つか廃止するかは喫緊の課題ではない。奴隷制度と有色人種について何かするとしたら、それはすべて連邦を保つという目的のために行うものである」(「アメリカ黒人史 奴隷制からBLMまで」J・M・バーダマン/ちくま新書

連邦に残った州の中にも奴隷制を維持している州があったため、その離反を恐れて慎重なレトリックを用いたという面もあっただろうが、そもそもリンカーン奴隷制はいずれ自然に廃れると考えていたので、書簡に示された言葉は本音であって、極めて現実的な政治家としての一面を現わしていると思われる。

 

1865年4月にリンカーンは暗殺されたが、死後、合衆国憲法に修正第13条(奴隷制の廃止)、修正第14条(黒人の公民権の保障)、修正第15条(黒人への投票権の付与)が追加された。

しかし、1877年、連邦政府が南部から軍を撤退させ、南部各州の州政府に統治の実権を委ねたため、合衆国憲法に定められた黒人の権利は次第に有名無実化された。

その逆行を正当化したのは裁判所の判決だった。 連邦最高裁判所は、1883年、憲法修正第14条は私人の行為には適用されないと判示するとともに、黒人の公民権の保護は州政府の権限であるとした。また、1896年には、公共施設での先住民や黒人の分離は人種差別に当たらないという判断を示した。

これによって黒人に対する公共施設、輸送機関、劇場、レストランなどでの人種隔離が確立した。 さらに、1890年代には、南部各州の州憲法の修正により黒人の投票権は剥奪されてしまった。

 

しかし、それから半世紀以上を経て、再び黒人の人権回復への道を開いたのもまた裁判所だった。1954年5月、子供が近くの学校に通えないのは憲法修正第14条違反ではないかという黒人住民の訴えについて、連邦最高裁判所は人種に基づく学校の分離は違憲だと判示した。その判決は公民権運動の出発を促す歴史的なものとなった。

 

その翌年、公民権運動の起爆剤となった2つの事件が発生した。 

1955年8月、南部ミシシッピ州で白人たちが14歳の黒人少年エメット・ティルを惨殺した事件が起こり、激しく損傷された遺体の写真が全米に配信されたことにより、米国内外で黒人差別の非道さに対する怒りが渦巻いた。過去にも黒人に対する残虐行為は多々あったが、少年のあまりに惨たらしい死体写真が社会の認識を変えた。

同年12月1日の夕刻、南部アラバマ州の州都モンゴメリーで42歳の黒人女性ローザ・パークスが市営バスで白人に席を譲らなかったとして逮捕された。これに抗議してキング牧師らはバスの利用をボイコットする運動を組織した。ローザが訴えた裁判で連邦最高裁は、1956年11月、公共交通機関の人種差別を違憲だと判示した。黒人住民はこの判決が出るまで1年以上にわたって不便に耐えてバスのボイコットを続け、利用者の大半が黒人だった市のバス事業は深刻な経営状況に陥った。

 

1963年6月、 ケネディ大統領は翌年の中間選挙を控えて、テレビを通じて、公共施設の利用における人種差別の撤廃とすべての国民への投票権の保障を内容とする法案の提出を表明した。その法案は、ケネディが暗殺された後を引き継いだジョンソン政権下で公民権法(1964年)及び投票権法(1965年)として制定された。

 

公民権運動を主導したキング牧師は非暴力による抗議を主張した。その姿勢は穏健な改革を歓迎した白人支配層の支持を得た。しかし、後年、米国社会にはびこる人種差別の根深さに疲れ果て、体制批判を強めた1968年4月、暗殺された。

黒人貧困層に支持されたのはマルコム・Xだ。「X」は、奴隷所有者から与えられたファミリーネームを捨て、失われた本来の名前に戻る意思を表す。マルコム・Xは、キングのような物分かりのいい黒人ではなかった。黒人イスラム運動組織のスポークスマンとして黒人の自尊心を鼓舞した。後年はより穏健な思想に変わり、キング牧師との共闘を探ろうとしていた1965年2月、暗殺された。

 

キング牧師とマルコムX」上坂昇(講談社現代新書)は、公民権運動の先頭に立った2人の人物の闘いの軌跡を追う。その中でFBIが行った盗聴についても触れられている。フーバー長官の指示によるもので、共産主義者のレッテルを貼る材料を探し、プライバシーを探った。後にその内容が世に出たが、それが事実であろうとなかろうと、暗殺の予感を抱きながら差別の撤廃に挑んだ人間の気高さは些かも輝きを失わない。今日、実はフーバー自身が絶対に知られたくない秘密を抱えていたことが知られているのは皮肉なことだ。

 

北米植民地に最初のアフリカ人奴隷が移送されたのは1619年だった。それから400年を経た現在もなお、米国の黒人が置かれている状況は厳しい。上記「アメリカ黒人史」によれば、2020年現在、黒人世帯の平均資産は白人世帯の10分の1から7分の1にとどまっている。民主主義陣営の旗手たる国において相応の罪もない者が警官に命を奪われる映像に目を疑う。