多摩川通信

昭和・平成の思い出など

日本サッカーの暗黒時代

 

小学校6年生の秋、田舎の個人病院の待合室で診察を待つ間、白黒テレビに流れるイングランド・サッカーの試合を見るともなく見ていた。タッチライン沿いをドリブルで疾走する選手。スライディング・タックルをかわしてゴールラインぎりぎりでセンタリング。ゴール前の選手が足に当てたボールがゴールネットに突き刺さった。そのスピードと目の覚めるような展開に一瞬にして心を奪われた。翌年、中学校に入学するや直ちにサッカー部に入部した。

 

1974年の6月から7月、西ドイツでFIFA(国際サッカー連盟)ワールドカップが開催された。西ドイツのベッケンバウアー、オランダのクライフ、ポーランドのディナ、ブラジルのリベリーノ。絢爛たる名選手たちが鎬を削った試合がテレビで放送された。中でもオランダのクライフ、ニースケンス、クロルらが示したポジションにとらわれない流れるようなプレースタイルは斬新で華麗だった。高校でも迷わずサッカー部に入った。

  

一方、当時の日本のサッカーはというと、眼を覆いたくなるほどの惨状にあった。1968年メキシコ・オリンピックで銅メダル・得点王(釜本)という輝かしい実績があったにもかかわらず、1970年代から1980年代にかけて日本代表チームは国際試合でほとんど勝てなかった。オリンピックもワールドカップも予選を突破できないばかりか、アジアの大会でも勝ち進めなかった。 

天皇杯の決勝戦ですら酷かった。パスが3回とつながらない。シュートはほとんどゴールの枠に飛ばない。ボールが頻繁にタッチラインを割ってプレーが中断する。テレビで見ていて全く面白くなかった。 

 

今思うとあれは、キックやトラップ(ボールを打つ・受ける)といった基本技術の問題以上に、スペースをどう使うか等の戦術的センスが欠けていたのだと思う。双方の選手が交錯し、ボールを持つやいなや相手選手が激しく詰めてくる中で瞬時に意図したプレーを遂行するには、ボールを持っている選手と周囲の選手の双方に、次に展開すべきプレーのイメージがなければならない。足でボールを扱うことによる不確実性が高い競技だからなおのこと、その感覚の重要性が高い。当時の日本では、選手のみならず指導者にもそのようなセンスが欠けていたのだと思う。

  

デットマール・クラマー 日本サッカー改革論」(中条一雄/ベースボールマガジン社)の中に、そのことを窺わせるエピソードがある。

クラマーは、1964年の東京オリンピックを控えて、当時もやはり国際試合で一向に勝てない状況にあって危機感を強めた日本蹴球(しゅうきゅう=サッカー)協会が西ドイツから招聘したコーチであり、1968年のメキシコ・オリンピックでも日本代表チームにアドバイスを行った。後にFIFA技術委員や米国サッカー協会コーチを務め、1975年にはFCバイエルン・ミュンヘン監督として欧州チャンピオンズカップ優勝を果たした。

 

 同書によれば、メキシコ・オリンピック準決勝のハンガリー戦において、クラマーは日本指導陣にハンガリーの攻撃の中核をなす2選手に対する守備の布陣をアドバイスした。それが功を奏して前半の失点は1点にとどまり、後半の闘い次第で銀メダルも見えてくる状況だった。ところが、日本指導陣は何を考えたか、後半、守備の布陣を変えてしまう。結局、ハンガリーに自由にボールを持たれて、さらに4点を失って敗れた。

 

 メキシコとの3位決定戦では、日本はカウンター攻撃で先制点を挙げる。釜本が左サイドの杉山にパスし、杉山がドリブルで攻め上って中央に蹴り込んだボールを釜本がゴールに叩き込んだ。釜本は「クラマーさんの指示は、杉山がドリブルしやすいように左のオープンスペースを常に空けておくことだった。ぼくが相手ゴールに向かって走るときは、いつも右サイドへ走って杉山からのパスを待った」と語っている。

 

 日本サッカーはメキシコで華々しい成果を挙げたにもかかわらず、なぜかその後一気に低迷してしまう。東京・メキシコの両オリンピックで代表監督を務めた長沼健(1976年日本サッカー協会専務理事、1994年会長)はその要因を次のように語っている。

「釜本、杉山に続くスターが育たなかった。強化費が足りなかったため海外に遠征させるのが難しく、若い選手に経験を積ませることができなかった」

 日本の状況にクラマーもショックを受けた。「銅メダルによって日本は世界に認められたのだから、一挙に世界に目を向けるべきだった。だが、国内のことに汲々としてしまったように感じる」とクラマーは語った。

 

日本サッカーの低迷について、1970年代には、日本サッカー協会及び上部団体である日本体育協会のオリンピック至上主義とそこから来るアマチュア指向に原因を求める見方が一般的だったと思う。だが、同じ球技であっても、実業団主体でありながら、バレーボールのようにオリンピックで男女ともに金メダルに輝いた例もあるし、ラグビーのように観客を興奮させる見ごたえのある水準に達していた例もあるので、サッカーについてだけ実業団主体のあり方を問題とすることには疑問が残る。

 

結局、日本サッカーが長い暗黒時代に陥った本当の要因が解明されたのか否かわからないまま、1993年のJリーグ発足に至る。Jリーグ以降の日本サッカーのレベルの向上、オリンピックやワールドカップでの日本代表チームの躍進、欧州トップクラブでの多数の日本人選手の活躍。かつての低迷など今や隔世の感がある。1970年代に眩しく仰ぎ見た外国のサッカーに堂々と渡り合う日本代表や日本人選手の姿を目にすることができたことは本当に幸せだった。

 

低迷をプロリーグ発足という形で一気に超克してしまった日本サッカー界の苦闘と成功は最大の賞賛に値する。「平成日本サッカー秘史 熱狂と歓喜はこうして生まれた」(小倉純二講談社)は、昭和のサッカーの牧歌的時代から平成のワールドカップ日本開催以後までの軌跡を記している。著者はJリーグの発足に尽力するとともに、2002年FIFAワールドカップ の日本誘致を進め、FIFA理事や日本サッカー協会会長を務めた。まるで爽快な青春小説を読むような思いで、昭和・平成の日本サッカーの歴史に思いを馳せた。

 

だが、今日、日本サッカーの暗黒時代がなぜ生じたのかという点については、きちんと答えが出ているのだろうか。もはや問う必要などない問題だろうか。日本サッカーの発展を心から喜びつつも、1970年代の記憶が残っている者としては、何か大事なことが見過ごされたままになっているような気がして落ち着かないのである。

 

私は日本サッカーの低迷の理由は、先述したセンスの欠如にあったのではないかと思う。それはメキシコ・オリンピック以後に突然始まったことではなく、初めからなかったのだと思う。メキシコではクラマーの実践的な指導により本場のサッカー・センスが移入された効果があったということではないだろうか。そのセンスが下地にあって釜本・杉山が活躍した。

 

足より器用であるはずの手を使えないということは、競技ルールに従いさえすれば一定以上の水準に達し得る他の球技とサッカーとの際立って違う点である。サッカーで高いパフォーマンスを実現するためには個々の選手に戦術的なセンスが求められる度合いが高い。サッカー先進地域との実戦的な交流が乏しかった日本では、独自にそのようなセンスが発展することがなかったということではないだろうか。

 

Jリーグ発足による成功は、選手のプロ化ができたということ以上に、海外先進地域のサッカー選手が日本でプレーする土台ができたことに意義があったのだと思う。それらの海外選手や外国人監督・コーチの流入により、言葉で伝えることが難しい「感覚」を日本人選手が実戦を通じて学び取ることができたことこそ日本サッカーが暗黒時代から脱出できた理由だったのではないだろうか。

 

 数十年前の病院のテレビの映像を思い出し、日本代表や日本人選手たちの海外での夢のような活躍に歓喜しつつ、いい時代を生きたと思う。