多摩川通信

昭和・平成の思い出など

スポーツシューズへの挑戦

 

私の個人的な感覚ではサッカーシューズとサッカースパイクは別物だ。サッカーシューズは合成樹脂のアウトソールと一体型で低いスタッド(突起)が多数並んでいるが、スパイクは少数の尖った金属スタッドがネジ式で付いている凶暴極まりないやつだ。

高校時代の雨の試合の白黒写真を見るたびに苦痛がよみがえる。水を含んで重くなったボールはぬかるみに嵌り込んで蹴っても飛ばず、相手選手のスパイクが容赦なく脛の骨の稜線にぶち当たるたびに激痛が脳天を貫いた。

たまらず脛当てをつけたのだが、これがまた大変な代物だった。鉄の細い棒を何本も並べて縫い込んだもので、上端と下端の紐で足に括りつける。まるで大昔の足軽雑兵である。疲れた足には重すぎた。そんな恰好で泥の中を這いずり回ったのだが、サッカーと言うより田植えか歩兵の訓練に近かった。

 

スポーツにおいてシューズは競技結果を端的に左右する。「オニツカの遺伝子」(折山淑美/ベースボール・マガジン社新書)によると、1960年代のマラソンシューズの開発はマメとの闘いだった。

約2万数千歩を走るマラソンでは、その回数だけ体重の3倍の負荷がかかった状態で足の裏が地面に叩きつけられる。そのため衝撃熱と摩擦熱が生じ、熱が蓄積された足の裏は一種の火傷状態になる。それを治そうとしてリンパ液が集まってマメができるのだそうだ。

オニツカ(現アシックス)は、靴の中に絶えず冷たい空気を取り込むとともに、ソールに衝撃を緩和する素材を用いることによって問題を克服しようとした。試行錯誤の末、前面と側面に通気口を設けたシューズが完成し、それを履いた君原健二は1968年のメキシコ・オリンピックのマラソンで銀メダルに輝いた。

 

同じ陸上競技でも走り高跳びのシューズは、走ることと同時にジャンプのために足をとめるという相反する動作の両方をサポートすることが求められる。また、レスリングシューズは、相手選手に足をとられないよう余分な部分を極力削ぎ落すとともに、ケガをしないように突起物をすべて取り去る必要がある。

バスケットボール、バレーボール、ウエイトリフティング、ボクシング、サッカー等々、オニツカの社員は各種目の現場に張り付いて観察を重ね、選手たちの要望を細かく取り入れながら試行錯誤を繰り返した。それは「スポーツシューズ」という新しいカテゴリーの創造に向けた挑戦だった。

 

オニツカの創業者は鬼塚喜八郎という。終戦後、復員した神戸で1949年、31歳で会社を立ち上げた。スポーツを通じて青少年の育成に貢献するという志を立て、自宅を会社にして社員4人で事業を始めた。旧制中学を卒業してすぐに陸軍に入隊したため靴づくりの経験も事業の知識もなかったのだが、わずか20年ほどで「オニツカタイガー」のブランドを確立し、会社を世界的な総合スポーツ用品メーカーに育て上げた。

 

1962年、神戸のオニツカをスタンフォード大学ビジネススクールを卒業したばかりの24歳のアメリカ人が訪れた。名前をフィル・ナイトという。後にアディダスを抜いて世界最大のスポーツ用品メーカーとなったNIKEを創業することになる。

オレゴン大学でマイルレース(1600メートル)のランナーだったナイトは、オニツカタイガーのシューズに可能性を感じ、アメリカで売り出そうと起業を思い立ったのだ。思い立ったはいいが、会社も社員も存在していなかった。ただ志だけがあった。

そんな若者にオニツカは、なんとアメリカでの販売代理店にならないかと誘い込んだ。その面談に社長の鬼塚自身は出ていなかったのだが、ナイトと自社幹部の若者たちの意気を良しとして了承した。社員も社長も皆が若い会社であったればこその勢いである。

ナイトの回想録である「SHOE DOG 靴にすべてを。」(東洋経済新報社)にはその時のことが詳細に記されているが、「オニツカの遺伝子」にNIKEは一切出てこない。不幸にして後に袂を分かつことになったためだろう。しかし、オニツカタイガーの販売によってナイトは事業を軌道に乗せることができたのであり、今日のNIKEはまさにオニツカの遺伝子を受け継いだものに他ならない。

 

ナイトは帰国後、オレゴン大学時代のコーチとパートナーシップを組んで自宅にブルーリボン・スポーツ社を立ち上げた。この会社が1976年に名称変更してNIKEとなる。社員になったのもオレゴンのランナー仲間たちで、それぞれが後のNIKEの屋台骨を支える幹部に成長していく。「SHOE DOG」には、その一人一人がまるで自ら新たに事業を立ち上げるかのように仕事に没頭し、問題を克服していく姿が記されている。

 

オニツカタイガーのランニングシューズはアメリカ市場に受け入れられ、売り上げは順調に拡大した。ついにはアメリカでの需要の高まりに対し日本からの出荷が間に合わなくなった。

そこでナイトは、1971年、かつてアディダスが使ったことのあるメキシコのメーカーにサッカーシューズの製造を委託することにした。そのサッカーシューズに躍動感のある翼のようなロゴをつけて「NIKE」と名付けた。「NIKE」は英語ではナイキだが、古代ギリシャ語ではニケである。そう、あのサモトラケのニケの「ニケ」であり(くどい!)、ギリシャ神話の勝利の女神である。

残念ながらこのNIKE第1号にはソールに欠陥があった。そのためポートランド日商岩井の協力を得て、日本のメーカーにNIKEブランドの各種シューズの製造を委託することにしたのだが、これがオニツカとの関係破綻の一因となった。

 

一方で、取引銀行からは販売増加の速さが会社の純資産に見合っていないと警告を受け続けた。販売の拡大は日本からの仕入れ増加を伴うため、仕入れ資金の借り入れが嵩んで常にキャッシュ不足に直面した。1975年、経営破綻を危惧した銀行からついに与信を断られてしまう。このとき日商岩井が負債を引き受けて事業継続を支援した。日商岩井もスポーツシューズ事業に可能性を見出していたのだ。

 

キャッシュフローの問題を解決するための方策として株式公開が視野に入っていたのだが、ナイトは事業の主導権を失うことを危惧して長くためらっていた。しかし、一般の株式とは別に経営権を確保するための権利を付与した別種の株式を併せて発行する方策があるとアドバイスを受けて1980年に株式上場をはたし、今日に至る成長への道が固まった。

 

「SHOE DOG」の成功物語をわくわくしながら読んだのだが、ひとつ疑問に思ったことがある。フィル・ナイトは名門スタンフォード大学でMBAを取得したのだが、それはNIKEの創業から飛躍までの一体どこに活かされたのだろうかという疑問だ。本書を読む限りではその点は見出せなかった。キャッシュフローのマネジメントができていなかったことや株式公開の手法について無知だったことなど、逆に、MBAって実はあまり現実の役に立たないのではないか、なんて暴言をあわてて吞み込んだのである。