多摩川通信

昭和・平成の思い出など

参加することの意義

 

アナザー1964 パラリンピック序章

アナザー1964 パラリンピック序章

 

 

参加することに意義がある」というのは近代オリンピックの精神を示すクーベルタンの言葉として知られている。ところが、この言葉はクーベルタンが生み出したものではないという。

 日本オリンピック委員会のホームページ(https://www.joc.or.jp/olympism/coubertin/)には、1908年に開催されたオリンピック・ロンドン大会で英米両国の選手団同士が険悪な関係になったとき、米国のエセルバート・タルボット主教が選手達に与えた戒めの言葉だったとある。クーベルタンは主教の言葉に感銘を受け、それを引用してスピーチを行ったところ、クーベルタンの言葉として有名になったのだそうだ。

タルボット主教のその説教はウィキペディア(「エセルバート・タルボット」)で見ることができるが、それを見る限り、オリンピックの精神を端的に表す言葉としては、やはりクーベルタンが生み出したものと言うべきではないだろうか。

 

オリンピックの精神を表すもう一つの有名な言葉がある。オリンピック憲章に規定されたモットー「より速く より高く より強く」だ。

このモットーが示すとおり、オリンピックは回を重ねるごとに人間の可能性を切り開き、超人同士が鎬を削る舞台となっている。そして、それはオリンピックのビジネスとしての成立と表裏一体で進展してきた。

 

このオリンピックの底流をなす2つの言葉は、相反するもののようでありながら、相互に輝いて見る者の心を揺さぶってきた。

 

人々の感動を呼んだ「参加」の一つとして、1988年、カナダのカルガリーで開催された冬季オリンピックで、スキージャンプにただ一人の英国人選手として出場したエディの挑戦を思い出す。

エディこと、マイケル・エドワーズは、オリンピック出場を夢見る左官職人だった。彼は、英国ではスキージャンプが盛んでなく競技水準が低い点に着目し、20歳を過ぎてスキージャンプを始めた。

エディの初期のジャンプの映像は強烈だった。ジャンプというより落下だった。悲鳴を上げて両手をばたつかせながら、ほとんど垂直に落ちるのだ。その挑戦は突飛で滑稽なものとしてマスメディアの注目を集めたが、エディは本気だった。

そして、25歳のとき、ついにカルガリー・オリンピックへの出場をつかみ取り、70メートル級と90メートル級でどちらも見事に着地して見せた。最下位だったが観客の感動と記憶を鷲掴みにした。その時の映像は今もYoutubeで見ることができる。

 

参加したことに意義があったという点で、1964年の東京パラリンピックに出場した日本人選手団の経験もまた心を打つものがある。

「アナザー1964 パラリンピック序章」(稲泉 連/小学館)を読むまで、1964年の東京でパラリンピックが開催されたことすら知らなかった。パラリンピックとしては、1960年のローマ大会に続く第2回大会だったという。

同著は、日本で初めてのパラリンピック開催に尽力した様々な人々の姿を、歴史の彼方から掘り起こしているが、何と言っても読む者の心に迫るのは出場した日本人選手たちの姿である。いずれも障害という苦悩を背負い、世間から隔絶された環境で、人生を展望することなどできない状態にあった。

日本人選手団は療養所や病院から搔き集められた人たちで、ほとんど競技経験もないまま、急遽、開催国選手団としての体裁を整えたものだった。そのような内実は、開会式のユニフォームが、他国の選手団はオリンピック選手団と同じブレザーだったのに対し、日本人選手団はジャージ姿だったことに端的に表れていたのではないかと思う。優れた競技結果を残した日本人選手もいたが、ほとんどは競技内容でも立ち居振舞いでも外国人選手に圧倒された。

だが、障害者であっても明るく自信に満ち、仕事を持ちながらスポーツを楽しんでいる外国人選手たちの姿は、日本人選手たちの心を変えていく。パラリンピックの舞台で自分たちが主役だったという経験が、自立した生活に向かう前向きな姿勢へとつながり、それぞれが自分の人生を取り戻していく。

選手たちにとって、参加したこと自体の意義はとてつもなく大きかったのだ。あらためてクーベルタンが掲げた言葉は偉大だったと思う。

 

今やパラリンピックも、「より速く より高く より強く」を競う超人たちの競技の場となりつつあることはオリンピックの歴史と同一であり、ビジネスとして成立するものとなったことがその変化を雄弁に語っている。

しかし、たとえパラリンピックが超人的な努力に輝きを与える場となったとしても、参加すること自体の意義は決して消えることはないこともオリンピックと同様であろう。