多摩川通信

昭和・平成の思い出など

フランス革命下の市民の日常

 

日記帖には、たいてい日々の天気を記載する欄が備わっているが、その必要性についてあまり意識したことはなかった。だが、フランス革命期にパリで暮らしていた平民で年金生活者の日記(「フランス革命下の一市民の日記」セレスタン・ギタール)を読んだとき、日々の天気を記すことの意義がはじめて明確に理解できた。

その日記におけるパリの天気の記載は、数々の歴史的出来事の登場人物の瞳に映った最後の景色を確かに伝えていた。ごく短い天気の記載ではあるが、その日、その時、その場所にいた人間が抱いたであろう感慨の一端を現在に鮮やかに蘇らせてくれる。

 

1793年1月21日月曜日午前10時20分、断頭台に立ったルイ16世は終始落ち着いていた。その沈着で鷹揚な佇まいは生来のものであり、革命の勝者による歴史の中で貶められたイメージとは異なり、実は進歩的な政策を実行した啓蒙的な君主だった。不幸にして歴史の転換点に居合わせてしまったルイ16世(処刑時38歳)が最後に見た空は、気温3度の湿った曇り空だった。

 

同年10月16日水曜日正午、マリー・アントワネット(37歳)は、ギロチンの刃が通りやすいように髪を短く切って、白い部屋着姿で断頭台に向かった。断頭台の階段は急な勾配だったのだが、後ろ手に縛られたまま、品位を失うことなく一人で階段を上って行った。断頭台の上で元王妃が最後に目にしたのは、気温12度で風は冷たかったが快晴の青空だった。

 

マリー・アントワネット」(安達正勝中公新書)によれば、元王妃は子供に対する愛情の深い母親で、歴代王妃とは違って子供の面倒をよく見たという。革命に対しては徹底して拒否の姿勢を貫き、ルイ16世を支えてオーストリアをはじめとする欧州諸王国の軍事力による情勢打開に望みをつないだ。フランスに外国の軍隊を引き込もうとしたその策謀は、まだ国王への敬愛を失っていなかったフランス国民を失望のどん底へと叩き込み、国民の危機感と愛国心に火をつけてフランスを共和制へと駆り立てることとなった。

 

革命の行き過ぎに拒否感をもつ政治指導者や国民も多かったので、国民が祈るような気持ちで国王を信頼したいと願っていた時点では、まだ立憲王政へと軟着陸できる可能性があったのだが、絶対君主として王位についたルイ16世は王権への束縛が拡大する一方の状況を受け入れることができなかった。

 

フランスで革命が勃発したそもそもの原因は国家財政の破綻だった。絶対王政の頂点に立ったルイ14世の治世下ですでに財政赤字と借金が膨らんでいたのだが、ルイ16世アメリカの独立戦争を資金と軍事力で支援したことが財政破綻を決定的にした。この財政難を打開するため、ルイ16世が税制を改めようとしたことが、誰も予想しなかった壮大な革命へとつながっていった。

 

背景にはフランスが抱える社会構造の矛盾があった。当時のフランスでは第一身分(聖職者)と第二身分(貴族)は課税が免除されており、第三身分(平民)だけが納税義務を負っていたのだが、その第三身分には参政権が認められていなかった。第一身分と第二身分は両者を合わせても全人口の2パーセントにすぎなかったが、国土の35パーセントの土地を領有していた。ルイ16世は、この特権身分の土地に課税することによって難局を乗り切ろうとしたのだが、既得権益を失うことを恐れた貴族たちが第三身分を抱き込んで三部会での討議へと持ち込んだところから革命の歯車が回り始めた。

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ギタール氏の日記には、日々高まるパリの騒乱とともに、革命が進展する中で様々な揺り戻しがあったことが記されている。 たとえばミラボーロベスピエールである。

 

  ミラボーは素行の悪さで知られた貴族だったが、その豪胆と雄弁にものを言わせて三部会以降の革命初期を主導して庶民の人気が高かった人物である。ミラボー立憲君主制を志向しており、革命の行き過ぎを警戒していた。王家に接近して相談役となったが、多額の報酬を求めたところがミラボーらしい。ルイ16世から資金を得ながら王権強化の論陣を張ったが、1791年4月2日土曜日(気温12度、曇り)、42歳で突然病死した。

「日記」には、4月4日月曜日(気温16度、最高の天気)に執り行われた葬儀の盛大さが記されている。パリ市内すべての鐘が鳴らされ、徒歩と騎馬の大部隊が遺体を護衛し、悲しみに包まれた民衆が沿道を埋めた。ギタール氏は「ミラボーほど傑出した人物は古来まれである」とまで書いた。

ところが、死後、王家から賄賂をもらっていたことが暴露されると名声は地に落ちた。共和派のジャコバン・クラブの人々はミラボーの胸像を打ち砕き、「ミラボーの遺体をパンテオンから放り出せ」と叫んだ。

 

1793年10月末以降、日記には「処刑」の文字が頻繁に現れるようになる。日を追うごとに反革命容疑による処刑者の数が増え、連日、数十名の処刑が行われるようになったことが記されている。ロベスピエールが革命と共和国を守ろうとして主導した恐怖政治が猖獗を極めた。

1794年7月27日日曜日(気温23度)、行き過ぎた粛清に対する反動のクーデターが発生する。ジャコバン・クラブ国民公会が大論争で荒れに荒れているらしいという噂が市民の間に広がった。やがて軍隊が出動し、市民の集合をうながす太鼓が打ち鳴らされ、全市民に武器を取るよう呼びかけられた。何が起こっているのか誰も詳しいことがわからないままパリ中が不安におののいた。その日の深夜、ロベスピエールが逮捕された。翌28日月曜日午後7時半(気温23度、小雨)、ロベスピエール(33歳)と共謀者21名が処刑された。

 

 

この日記を記したセレスタン・ギタール氏とは何者か。実はよくわからないのである。日記の記載からわかることは、1724年9月3日、シャンパーニュ州の小村に生まれ、1769年からパリに住んでいたが、1783年に妻を亡くした。年金を受給していたが(当時すでにフランスには各種の年金制度があったらしい)、主な収入源はサント・ドミンゴへの投資(具体的には不明)の収益だったようだ。若い時に何をしていた人物なのか興味が湧くが刊行された日記には手がかりとなるような記載はない。

 

ギタール氏の死後、日記は生まれ故郷に送られ、200年近い歳月を経て1974年にパリで出版された。出版者はギタール氏が生まれた村を訪ねて痕跡を探したが何も得られなかったという。

 

刊行されたのは1791年から1796年の日記であり、まさに革命が進展するさなかの日々の記録である。混乱と不穏な空気に包まれ、次第に食料が欠乏し、物価が跳ね上がる中で、ギタール氏は年金の受給手続に苦労し、サント・ドミンゴの動乱では資産を失う。暮らしが窮迫していく中でやりくりに苦労しつつも、頻繁に知人を招き、また招かれて食事を共にし、たまには観劇や演奏会などにも出かける。

 

中でも不思議な感動を覚えたのはセリエ夫人との交際である。日記の全編にわたってこの女性が頻繁に登場し食事を共にする。日記の期間に当てはめればギタール氏は66歳から71歳、セリエ夫人は33歳から38歳だった。随分と年の差があるが、明らかに情交を含む関係である。激動の日々にあっても日常を謳歌し続けた姿に、堂々たる人間讃歌を聞く思いがする。思わずベッドの上のふたりに向かって、「よくぞやってくれた」と喝采を送りたくなるのである。