多摩川通信

昭和・平成の思い出など

帝国の幻影

 

むかし神聖ローマ帝国という国があった。古代ローマ帝国の親戚のようでもあり、本家を上回るほどの立派な雰囲気でもある。初めて耳にしたときは、それほどの偉大な国を知らなかった迂闊さにうろたえた。だが落ち着いてみると、その仰々しさには温泉地の秘宝館とまでは言わないが、どこか胡散臭いところもないではない。

                                

神聖ローマ帝国は中世から近世にかけて西ヨーロッパに実在した。だが、ヴォルテールは「神聖でもなければローマでもなく帝国ですらない」と書き、ゲーテは「今日ドイツ帝国が解散した」と特段の感慨もなく記した。

神聖ローマ帝国」(菊池良生講談社現代新書)は、この“いわく”てんこもりの帝国の成り立ちから消滅までを列伝風に活写している。

ヴォルテールの言葉は身も蓋もないが、神聖ローマ帝国はローマ教会の権威を通じて古代ローマ帝国を継承したものとして一応の由緒はあったのである。もっとも、後に帝国名に「神聖」を冠したあたりから帝国としての実体を失っていくのだが。

 

古代ローマ帝国は広すぎた領域を維持することができなくなって4世紀末に東西に分裂した。コンスタンティノープル(現イスタンブール)を帝都とした東ローマ帝国は繁栄して15世紀まで存続したが、西ローマ帝国は大移動でなだれ込んできたゲルマン人によって5世紀に滅亡に追い込まれ、以後西ヨーロッパは千々に乱れた。

8世紀半ば、ゲルマン人の部族であるフランク人が王国を樹立し、9世紀初頭、カール大帝ローマ教皇から皇帝戴冠を受けて西ローマ帝国を再興した。

 

9世紀半ば、西ローマ帝国は中部フランク、西フランク、東フランクの3つの王国に分裂する。イタリア、フランス、ドイツの原型である。

東フランクのオットー1世は962年にローマで皇帝に戴冠し、イタリアを接収してその国王を兼ねた。しかし「ローマ帝国皇帝」を名乗ることはなかった。東フランクが「ローマ帝国」という国名を用いるようになったのは1034年である。皇帝の権威をフランスにも及ぼそうとしたものだった。

 

帝国を継いだ皇帝フリードリッヒ1世は、1157年、長年引っかかっていたことに画期的な答えを見出した。皇帝の権威はローマ帝国の栄光に由来するものであって、神から直接に与えられたものなのだと思い至ったのだ。そうであれば帝冠を教皇から授けられる筋合いはない。そこで「神聖帝国」と名乗ってみたところ、見事に帝国名として定着した。

 

一方で、広大な版図を維持することは戦いの連続であり膨大な戦費が必要だった。それを調達するための交換条件として諸侯に特権の付与を重ねた結果、帝国内部に多数の領邦国家が出現した。それは皇帝の権力が削がれて帝国の実体が失われていくことに他ならなかった。

1254年、時の皇帝ウィレムが妙案を思いついた。実体が怪しくなったのなら名前を立派なものにすればよい、内実は後から整うだろう。新国号「神聖ローマ帝国」の登場である。

 

帝国の内情がそんな有様だったので皇帝すなわちドイツ国王のなり手がいなくなった。困ったのは教皇である。皇帝の軍事力なしには教皇領の安全も自らの権威も保つことができないのだ。教皇は有力諸侯たちに国王選挙の実施を強力に促した。

そして擁立されたのがスイスの貧乏伯爵家だったハプスブルクである。これに臣従することを拒否した強大なボヘミア王との戦いを策略で制したことによりハプスブルクの王権が確立した。1278年のことだった。

 

1493年にドイツ国王に就いたハプスブルク家のマクシミリアンは、教皇による戴冠という面倒な儀式を廃して自ら神聖ローマ皇帝に即位した。このマクシミリアンがまた奇天烈な国号改正を行った。今度の新しい国号はなんと「ドイツ国民の神聖ローマ帝国」だというのである。ちゃんと公文書に記された。

背景はイタリアの反乱だった。フランスと権益を争って派兵したのだが、実質的にイタリアを失った。そのフランスとイタリアに対する憤怒を、こともあろうに国号に込めたのである。帝国の黄昏を示すものに他ならなかった。

 

神聖ローマ帝国の解体を決定づけたのはドイツ三十年戦争(1618~1648)でのハプスブルクの敗退だった。ヴェストファーレン条約ウェストファリア条約)でスイスとオランダの独立や帝国議会による皇帝権力の制約などが定められた。

 

「皇帝」とは国王たちの上位にあってそれらの王国を統べる者であり、ヨーロッパではその正統性の淵源は古代ローマ帝国にあると認識されていた。神聖ローマ帝国がイタリアに執着した理由である。ところが、そんな呪縛をいともたやすく断ち切って見せた新時代の覇者が現れた。ナポレオンである。

1804年、ナポレオンは何の由緒も求めず自ら堂々とフランス皇帝を名乗った。これを見た神聖ローマ皇帝フランツ2世は、自ら初代オーストリア皇帝フランツ1世を名乗り、1806年、神聖ローマ帝国の「解散」を宣言したのである。

 

こうしてみてみるとプーチンウクライナに執着する理由が見えてくる。ウクライナベラルーシを従えてロシア帝国(ルーシ帝国)を復活させ、終身の「ロシア皇帝」になろうとしたのだ。アメリカ流の大工の親方のような地位では満足できなかったのである。

それなら誰かナポレオンの故事を教えてやったらいい。ウクライナベラルーシがなくても皇帝になれるということを。そして皇帝戴冠式を盛大に祝ってやるのだ。恍惚のあまり本物になってしまうにちがいない。皇帝メダルを首に下げて心底嬉しそうに介護を受けることだろう。