多摩川通信

昭和・平成の思い出など

ロシアから見た日本海海戦

 

 

昔、東欧の人と話をしていたとき、何かの拍子で日露戦争の話になった。「203高地の攻防戦でロシア軍として戦っていたのはポーランド人だったことをご存知ですか」とその人は言った。

203高地でまず脳裡に浮かんだのは1980年公開の東映映画「二百三高地」だった。主人公はロシア文学を通してロシアに親近感を抱く平和主義者だったのだが、徴兵されて動員された203高地の攻防戦で弾が尽き、白兵戦でロシア兵の目に指を突っ込む。

その残像と「実はポーランド人だった」という意外な言葉が相俟って複雑な思いが残ったのを思い出す。

 

日露戦争が勃発したときのロシア帝国は、ポーランドフィンランド、バルト諸国、中央アジア諸国などを支配下に置き、総人口に占めるロシア民族の割合は約4割に過ぎない多民族国家だった。

軍隊にも、特に陸軍において、支配下の非ロシア民族が多数動員されており、203高地がある旅順に駐留した部隊には特にポーランド人が多かった。

ロシア軍は、日本軍との戦いで鴨緑江、旅順、奉天と敗退を続けたが、民族間の相互不信や反目により士気が振るわなかったことが一因として指摘されている。

日本軍は局地的な勝利を挙げ、ロシア陸軍はほとんど崩壊していたが、双方ともに余力が尽きたまま対峙するに至った。

 

戦争に決着をつけたのは、1905年5月、対馬沖で行われた日本海海戦だった。

バルト海からアフリカ南西端の喜望峰を回り、7か月かけて大遠征をしてきたロシアのバルチック艦隊は、戦艦12隻、装甲巡洋艦1隻、その他の巡洋艦7隻、駆逐艦9隻、輸送船等9隻、合計38隻という編成だった。

これに対し、迎え討つ日本の連合艦隊は、戦艦4隻、海防用戦艦2隻、装甲巡洋艦8隻、その他の巡洋艦15隻、駆逐艦30隻、水雷艇30隻という陣容だった。

海戦は2日間にわたって行われたが、始まって30分程度でロシア艦隊は指揮系統を喪失し、早々に趨勢が決した。結果は、ロシア側の沈没21隻、拿捕5隻、武装解除6隻、包囲突破4隻(ウラジオストック到着3隻、自沈1隻)、抑留等2隻、バルト海帰着1隻に対し、日本側は沈没3隻(いずれも水雷艇)という海戦史上まれにみる圧倒的な勝利だった。

 

沈没を免れたロシアの新鋭戦艦アリヨールに乗り組んでいた技術士官と主計兵が手記を残している。(「もうひとつのツシマ ロシア造船技術将校の証言」ウラジミール・コスチェンコ、「ツシマ」ノビコフ・プリボイ、いずれも原書房刊)

バルチック艦隊は旧型艦を多く抱えていたため、技術士官コスチェンコは、排水量・備砲・装甲において日本側がバルチック艦隊より約2倍の優位にあると見ていた。いずれの手記にも、バルチック艦隊将兵が、早い時点から等しく、勝ち目がないと見ていたことが記されている。

それどころか、艦隊司令官であるロジェストヴェンスキー提督自身が勝算がないと考えていたことが、近年発見された妻子に宛てた手紙から明らかになった。(「もうひとつの日露戦争 新発見・バルチック艦隊提督の手紙から」コンスタンチン・サルキソフ/朝日選書) 

 

日本海海戦は、威力で上回るバルチック艦隊連合艦隊が奇跡的に破ったものと思い込んでいたのだが、客観的な事実は逆で、勝つべき実態があってこそ勝てたのだと知って意外だった。

 

ただし、コスチェンコは手記の中で、ロシア側にも勝機があったと分析している。

それは、連合艦隊が有名な「敵前大回頭」を行ったときだった。縦列で進んだ連合艦隊が180度転回して元の針路を戻ろうとしたとき、転回点で艦列が重なって渋滞が生じた。

ロジェストヴェンスキーが、その塊に向けてロシア艦隊先頭にあった高速の新鋭戦艦4隻を全速力で突進させれば、砲撃の着弾率も上がり、連合艦隊の艦列を混乱させることにより速度で劣る旧型艦の戦闘参加が可能となり、連合艦隊の機動の自由を封じつつ乱戦に持ち込むことができたはずだとコスチェンコは見た。そうなった場合、日本海海戦は異なる結末となった可能性があったのだ。

 

2冊の手記を読む限り、ロジェストヴェンスキーは、この海戦において何ら意味のある戦闘指揮を行っていない。バルト海出発以来、幕僚や他の司令官との間で作戦に関する意思疎通がなく、戦闘目標も一切示さなかった。戦闘中の指揮権の承継についても指示していなかったため、旗艦が被弾した際の負傷により自ら指揮をとれなくなった時点でロシア艦隊は組織的な戦闘能力を失った。

奇妙なことに、ロジェストヴィンスキーは日本艦隊との戦闘よりもウラジオストック軍港への到着にあくまで拘った。被弾により機能を失った旗艦から駆逐艦に移される際にも、「ウラジオストックへ行かねばならぬ」と言ったという。

艦隊を温存するために、とにかくウラジオストックを目指すというのであれば、速度に応じた艦隊編成をとるべきであったし、日本海軍の根拠地に近い対馬海峡を通ることは絶対に避けるべきだったと手記を残した2人のロシア人はともに指摘している。

このような人物がロシアの命運をかけた艦隊の司令官に任命されたこと自体、帝政ロシアという体制が既に崩壊していたことを物語っている。

  

ロシア国内における革命の芽吹きはバルチック艦隊の内部にも伝わっていて、古い身分制度を残した艦内においては、戦闘を目前にしながら水兵や士官による反乱が生じていた。そもそも戦に臨めるような状態ではなかったのだ。

それでも、海戦に突入するや覚悟を決めて戦闘に立ち向い、力を尽くして死んでいったロシア人達の姿はプリボイの手記「ツシマ」に活写されている。

 

 日本海海戦の圧倒的な勝利は、しかし、その後、日本が針路を誤る一因となったことはまことに歴史の皮肉である。