多摩川通信

昭和・平成の思い出など

悲劇の背景

 

スーパーでメザシの前を通るとき、ついうっかり一礼してしまいそうになる。土光さん宅の食卓のメザシが一躍脚光を浴びたのは40年も昔のことだ。当時、土光敏夫東芝の社長・会長を経て、第二次臨時行政調査会の会長だった。質素な生活ぶりは有名で、実直そのもののような存在だった。

東芝提供の「サザエさん」は、毎週、お茶の間のテレビで善良な生活を表現して見せた。東芝の家電製品は明々と信頼を照らし出していた。

 

その東芝が不正行為によって存続の危機に陥ることなど誰が想像できただろう。「東芝の悲劇」(大鹿靖明幻冬舎文庫)は、その衝撃的な事態がなぜ、どのような経緯で生じたのか、そしてその背景に何があったのかを余すところなく伝えている。

 

東芝が大規模な粉飾決算を行っていたことを自ら公表したのは2015年7月だった。2008年度から2014年度にかけて総額1500億円にのぼる巨額の粉飾を続けていたという驚愕の事実が露わになった。

あの東芝で、しかも社長が指示した組織ぐるみの行為だったというのである。誰もが耳を疑った。名門企業への信頼は一瞬にして崩れ落ちた。発覚の発端は内部告発で、勇気ある告発を行った社員がいたことはせめてもだった。

 

この危機的状況に追い打ちをかける事態が生じる。東芝は2006年に米国原発メーカーのウェスチングハウスを買収したのだが、企業価値を2千億円程度と見積もっていたにもかかわらず、最終的には3倍以上もの法外な高値で買い取った。そのウェスチングハウスが2017年3月に経営破綻し、累計損失額が1兆4千億円に達したのである。これによって東芝債務超過に陥った。

 

危機打開のため東芝は収益の柱だった半導体事業の売却を決断する。だが、この売却交渉は二転三転して難航を極めた。最終的に2017年9月、米国の投資ファンドと韓国の半導体メーカーを中心とする共同事業体への売却が成立したが、仲介した米国投資銀行が「前代未聞」と評したほどの複雑な仕組みになってしまった。

 

その後東芝は経営再建のため傘下事業の売却と分社化を進めた。分社化した会社も他社に買収され、現在、東芝は残ったグループ会社の持株会社として存続しているが、再建資金を出資した国内外の投資ファンド(いわゆる「もの言う株主」)との間で再建方針がまとまらず、先行き不透明な状態が続いている。

かつて日本の産業を先導した総合電機メーカーの凋落は、昭和の時代の熱気と高揚が歴史の彼方へと霞んでいくようで寂しい限りだ。

 

東芝が自らの過ちの責めを負うのは当然だ。だが、債務超過の直接の原因となった海外原発事業については、国策に沿ったものであり、経産省から強力に背中を押されて乗り出したものだ。

2005年に閣議決定された「原子力政策大綱」において、「原子力産業の国際展開」が掲げられた。2006年、その実現方策として経産大臣の諮問機関である総合資源エネルギー調査会で「原子力立国計画」が策定され、「我が国原子力産業の国際展開支援」が政策として位置づけられた。これが原発輸出へとつながっていった。この基本方針は福島第一原発の事故の後でも見直されることはなかった。

 

では、この国策はどのような成果を上げたのか。結果は見事な惨敗である。経産省の旗振りで東芝・日立・三菱重工の3社が原発輸出に取り組んだものの、ただの1基も稼働には至らず全て空しく撤退した。福島原発事故の後では安全対策コストが激増し、既にビジネスとして成り立たない状況が生じていたのだ。

 

前述の東芝半導体事業の売却にも経産省の意向が大きく絡んでいた。経産省はやはり国策として、中国・台湾・韓国の半導体メーカーの参入を何としても阻もうとしたのである。だが、経産省主導の売却交渉は迷走に迷走を重ね、米国企業から「経産省がやることは失敗ばかりだ」とまで言われる始末だった。ヤンキーはフランクだ。

 

「国策」に振り回され続けた東芝には気の毒な面もある。そもそも国が企業の事業展開にこれほど直接に介入したことは正しいあり方だったのだろうか。まるで戦中・戦後の経済統制の亡霊ではないか。岸信介の威光の残照と言うべきか。国は自ら指し示した政策の結果をしっかり検証すべきだ。

 

国と企業の関係を巡っては、既に60年前にひとつの結論に達している。1962年、特定産業振興臨時措置法案が産業界の反対で廃案に追い込まれた。この法案はまさに産業政策の根拠法に他ならなかったのだが、産業界が国の介入を拒否したのだ。城山三郎の「官僚たちの夏」のクライマックスである。

 

若き日の孫正義が通信事業に乗り出そうとしていた頃、「今、行政に期待することは何ですか」と問われて「頼むから何もしないでいてほしい」と答えたのは痛快だった。起業家の面目躍如たるものがある。

 

東芝の悲劇は、行政の企業へのかかわり方について謙虚な反省を迫っている。誠実な検証がなされないまま、なかったことにされてしまってはメザシもサザエも浮かばれない。土光さんも怒り出すよ。