多摩川通信

昭和・平成の思い出など

オフィス・オートメーションの時代

 

スティーブ・ジョブズ I
 

 

1980年代から1990年代におけるオフィス・オートメーション機器の進化と普及には目覚ましいものがあった。

 

 1980年代の初め、事務機器メーカーに就職した友人から「ファクシミリの営業をやっている」と聞いたとき「ファクシミリ」がどういうものだかイメージできず、通信回線で文書や画像を送受信する装置だと説明されても、通信回線を通してどうしてそんなことができるのか不思議でならなかった。

だが、実はファクシミリの歴史は古い。最初にその原理を発明したのはスコットランド人で1843年のことだった。1843年といえば日本は天保14年で、老中の水野忠邦が失脚した年だ。グラハム・ベルによる電話機の発明が1876年だから、それより33年も早かった。もっとも、ファクシミリの原型となったその装置は、画像があまりに不鮮明なため実用に供されることはなかったという。

その後の改良により、ファクシミリは歴史の様々な場面で画像を送信してきた。日本では、1928年の京都御所における昭和天皇の即位礼、1936年のベルリン・オリンピック、あるいは1937年以降の戦争において、主に新聞社や軍部で用いられた。

ファクシミリが日本で一般企業のオフィスに広く浸透するようになったのは、1984年に高速デジタル回線の規格が高度化されて以降である。

今では電子メールの普及により、もはやファクシミリの出番はなくなったのかと思いきや、通信結果を改ざんされ難いため記録性が高いという特性から、いまだに世界中で根強く利用されているという。

 

コピー機の進化も著しかった。普通紙複写機の技術は1938年に米国で発明され、その後1959年に現在のゼロックスの前身となる企業が事務用複写機の開発に成功した。

1980年代半ば、職場にはコピー機があったが、使い勝手が悪かった。原紙をコピーし、そのコピーをさらにコピーしてと複写を重ねると、3回くらいで画像が歪み、かすみや汚れが目立った。

いちばん難儀したのは複数部数のコピーを作る作業だ。コピー機自体にソート機能が付け加えられる前は、コピー機とは別にソーターという大型装置があって、各ページごとに必要枚数をコピーしてセットしてから動かすのだが、とにかくよく詰まって止まり、回復に手を焼いた。

それが数年の内にほとんどストレスを感じることなく利用できるようになり、カラーコピーも可能となって、ファクシミリと一体になった複合機も普及するに至った。

 

文書の作成においては、1980年以降、ワープロワードプロセッサー)が登場した。これにより、昔は手書きで足りた書類が、いちいちワープロで作成しなければならなくなった。

1980年代前半に日本語仕様のパソコンが現れ、ワープロからの移行が進んだが、当初はパソコンといっても文書の作成が主な使い道で ワープロと大した違いがなかった。

パソコンの真価が発揮されるようになったのは、1990年代にインターネットが利用されるようになってからである。特に電子メールと検索エンジンは、あっという間に仕事に欠かせないものとなった。

今では、入社した時からメールがあった若い人たちは、すぐ傍の人ともメールのやり取りで済ませてしまう。少し寂しくはないかと思ったりもするのだが、これは自分が既に時代に遅れていることの現れなのだろう。

 

パソコンの普及と並行して、Windows を開発したビル・ゲイツや Mackintosh を開発したスティーブ・ジョブズが日本でも華々しく話題になった。大学を中退して起業した若者たちが、コンピュータ業界の巨人IBMを向こうに回して堂々と対峙するまでに至った軌跡には革命的なインパクトがあった。

 

他方、 日本では、通産省主導で2つの国家プロジェクトが実施された。1982年からの10年間で570億円を注ぎ込んだ「第5世代コンピュータ」と1985年から5年間で250億円を費やした「シグマ計画」である。

「第5世代コンピュータ」は、IBMのコンピュータを遙かに凌駕するような高性能コンピュータの開発を目標としたものだったが、目標には遠く及ばないまま終了した。「シグマ計画」は、ソフトウェア開発の生産性を上げるためのネットワーク構築を目指したものだったが、技術の進展に対応できずに惨敗した。いずれもコンピュータ技術の発展には何ら寄与するところなく幕を閉じた。

 

日米のこの違いはどこから来たのか。

ひとつには、米国の場合は職の流動性が高いため事業に失敗しても再起の機会があり、若い人材が斬新な発想で事業に挑戦することが容易な社会だったということがあると思う。日本のように新卒一括採用が社会の岩盤となっていて、失敗したら職を得ることが難しい状況では挑戦はできない。

もうひとつは、知識型の産業は、国が主導する硬直的なプロジェクトで発展させられるものではなく、柔軟で多様な取り組みの中からしか発展の余地は生まれないことを通産省が自覚していなかったことがあげられる。

 

国の支援など無縁だった日本食やアニメが諸外国の人々に浸透し、国の安全保障を支えるソフトパワーの重要な一部となるに至っていることは未来への希望だ。