多摩川通信

昭和・平成の思い出など

あるシベリア抑留者の手記

 

厚労省の調査によると、1945年の終戦時、日本人(軍人、役人、民間人)約57万5千人がソ連各地の強制収容所に連行された。そのうち5万5千人が抑留中に死亡し、47万3千人が日本に帰還した。

「収容所から来た遺書」(辺見じゅん/文春文庫)は、帰還者たちへの聞き取りにより抑留の実態を今日に伝えている。巻末にこの本が書かれた経緯が記されている。

1986年、読売新聞社角川書店が主催して「昭和の遺書」を募集した。全国各地から寄せられた遺書の中に、編者として関わっていた著者が特に目を引かれたものがあった。それは抑留中に亡くなったある人物が家族に書き残したもので、32年の歳月を隔てて家族のもとに届いたばかりだというのだ。著者の聞き取りがそこから始まった。

長きにわたる収容所の年月においても抑留者たちが細々と、しかし強固に希望をつなぎ続けた姿が本書の中で生々しく蘇る。その遺書が32年後になって届けられるまでの経緯を知ったとき、戦争に翻弄されながらも真心を尽くした人々の真摯な思いが胸に迫る。

読み終えて思い出したことがある。私の親戚もシベリアに抑留され、1949年に帰国を果たした。帰国して15年後、シベリア連行までの経緯や収容所で経験したことを記憶をたどって書き綴った。その写しが我が家にもあったはずだと思い出したのである。やっと探し出して、初めて目を通してみた。そこに記されていたのは、体験した者でなければ言葉にできない痛切な経験の数々だった。以下はその手記からの抜き書きである。

***********

占守島の戦い】

1945年8月、親戚は2度目の召集で北千島の占守島(しゅむしゅとう)にいた。軍曹で高射砲隊の分隊長だった。8月18日未明、ソ連軍が艦砲射撃の援護を受けて上陸してきた。15日に終戦玉音放送を聞いたばかりだったのだが、幌筵島(ほろむしろとう)の軍司令官から「北部軍管区司令官から降伏せよとの無電を受領したが承服できない。死を賭けて全軍戦え」との命令が下り戦闘となった。

高射砲を前線に移動させ砲身を水平にして、敵艦隊、上陸用舟艇ソ連兵に向けて撃ち続けた。すさまじい撃ち合いになった。砲弾が炸裂する轟音と硝煙に人馬の血の匂いが混じった。夜が明けはじめたが濃霧で視界が開けない中、ソ連爆撃機が飛来して無差別爆撃を行った。海岸線に展開した歩兵部隊は全滅し、速射砲、迫撃砲、野砲も壊滅した。戦車隊も全滅したと伝わってきた。

玉砕を覚悟しはじめたが、昼頃になって敵の攻撃がぱたりと止んだ。高射砲隊も射撃を止めて昼飯を食った。通信設備が被弾したため無線が使えなかった。午後に至るもソ連軍の攻撃は再開されなかった。この間、北部軍管区司令部は幌筵島の師団司令部に対し「停戦せよ」「降伏せよ」とひっきりなしに打電していたと後になって聞いた。

やがて霧が薄らいで視界が広がってきた。その時、白旗を掲げたトラックが敵方に向かうのが見えた。「降伏だ」と思った瞬間、敵の砲弾が命中してトラックもろとも乗員が空中に舞った。霧で白旗が見えなかったらしい。しばらくして2台目の白旗トラックが出て、今度はうまく行った。夜、武装解除の命令があった。

【シベリア連行】

占守島ソ連軍により軍隊編成を解かれて作業大隊とされ、道路造りや食料・弾薬の運搬に従事させられた。ソ連の後続部隊が次々に上陸してきた。

9月26日午後3時、小樽へ向かうと言われて旧日本兵約1千人が歓喜に沸いてソ連の貨物船に乗り込んだ。船首と船尾の船倉に半分ずつ収容され、大隊長以下将校5人は別室に隔離された。護衛のソ連海軍巡洋艦が1隻同航した。船内では帰国の喜びが爆発し、深夜まで唄や笑い声があふれた。

北千島を離れて4日目、そろそろ南へ向かうものと思われたが方位計の針は西を指したままで、そのうち逆に北に回りだした。皆の顔色が変わった。誰かが「だまされた」と叫んだとたん、船底は一気に騒然となって叫喚であふれた。甲板への出口を警備するソ連兵の人数が増えた。

船底では下士官を囲んでいくつかの密談の輪ができた。船を奪う相談だった。船倉は深く出口には長い梯子が一本かかっているのみ。用便を装って警備兵に襲いかかったところで順次にたちまち射殺されることは目に見えている。故郷を目前にして決死要員を志願する者はなく、誰もまた命じることができなかった。しかも傍には巡洋艦が併航している。手記にはこのときの無念が軋むかのように書き連ねられていた。

強制収容所

船はソ連沿海州ポルトワニー(不明、ソ連側の偽りか?)という小さい港に入った。自動小銃を抱えたソ連兵に囲まれて30分ほど行進して山腹に建てられた収容所に着いた。4つの建物を囲んで高くバラ線が張られ、監視やぐらがあった。「捕虜になったのだ」というささやきが飛び交った。ソ連の役人や民間人が出迎えていて、その中に若い金髪の女性が2人いた。

大隊長ソ連側から指示を受けた後、「今日から本職は作業大隊の長として指揮を執る。まだ日本軍隊はあり、この地においても軍人は軍人である。規律を守り上官の命に従い、ソ同盟のために労務に服務する」と訓示した。どこかで「誰が命じた」という怒気を含んだ声が上がった。日本軍という組織がまだ存在しているのかという疑問は武装解除を受けた時からあり、後に時がたつにつれて軍隊という意識は薄らいでいった。

代わって立ち上がってきたのが「シベリア民主運動」だった。それは共産主義同調者による煽動であり、同調した者から先に帰国させて日本共産党に入党させるというソ連の卑劣な策謀だった。その道具となったのが「日本新聞」(後に「日本しんぶん」)で、日本人が情報に飢えているのに付け込んで共産主義思想を刷り込ませようとするものだった。

収容所の食事はコーリャン、塩ニシン、黒パンといったものだったが、とにかく量が不足だった。常に空腹を抱えたまま山を掘り割る土木工事に昼夜従事させられた。疲労困憊して寝棚に横になっても南京虫とシラミの襲撃で十分な睡眠がとれない。衰弱して死ぬ者が次々に出た。脱走して銃殺された者もいた。

【帰国】

2年目の冬を迎えたあたりからソ連側の姿勢に変化が現れた。労働作業が進捗しなくてもノルマ達成を厳しく責められることがなくなって雰囲気が緩んできた。1949年になると収容者を帰国させる動きが急にあわただしくなった。

同年10月、貨車でナホトカへ移送された。ナホトカはソ連各地の収容所から集まってきた同胞たちで溢れかえっていた。日本の引揚船が入港し、見送りのソ連人たちに手を振って舞鶴へと出港した。

***********

親戚が故郷へ帰還を知らせたとき、その実家では大いに喜び安堵したが、親類から不安が持ち上がった。ひょっとして「アカ」に染まってはおるまいかという心配だった。たとえ染まっていたところで何事かあろう。田舎の農村に資本家はいない。とは言うものの田んぼの畦道で農作業の村人たちに向かってアジ演説などされては親類一同の平穏な生活に差し支える。

ということだったのだろう、親類のひとりが舞鶴まで迎えに行って、正気かどうかをまず確かめるということになった。結果、面接に合格して親戚は無事実家に帰還した。その後、村役場に勤めて村人たちの信頼が厚かった。

40数年前、この親戚が心臓発作で亡くなったとき、村中の人たちが葬儀に集まり、抑留中の苦労をいたわりながら見送ったのを思い出す。