多摩川通信

昭和・平成の思い出など

法学部盛衰記

 

大学の誕生〈上〉帝国大学の時代 (中公新書)

大学の誕生〈上〉帝国大学の時代 (中公新書)

  • 作者:天野 郁夫
  • 発売日: 2009/05/01
  • メディア: 新書
 

 

法政大学の歴史は1880年明治13年)の東京法学社の設立から始まる。同大学の校歌(佐藤春夫作詞)は「青年日本の代表者」と謳っているが、東京法学社が設立された時代はまさに近代日本の青年時代の始まりだった。

 

当時、日本の最大の課題は、幕末に欧米列強と締結した不平等条約の改正だった。その改正に当たって、列強から西欧と同等の国内法の整備を求められたため、法制の整備・確立を図るための人材育成が急務となっていた。

 

1871年明治4年)、司法省に明法寮(後の司法省法学校)が設立され、パリ大学法学部からボアソナードらを招聘し、フランス語によるフランス法の教育(法律実務家の養成)が行われた。

フランス法が選択されたのは、幕末、薩長に接近した英米に対抗してフランスは幕府を支援した関係で、幕府の蕃書調所で洋学教育を受けた箕作麟祥(みつくり りんしょう)らがフランスに渡ってその法制を実地に調査し、その内容が明治政府に受け継がれたことによる。

また、当時、フランスでは、諸国に先駆けて憲法民法、商法、刑法、民事訴訟法、刑事訴訟法の成文法が施行されていたのに対し、英米判例法が主体の特殊な法体系であり、ドイツは成文法の制定が遅れていたという事情もあった。

 

1877年(明治10年)には、東京大学が設立され法学部が設置された。ここでも欧米各国の教師により各国語による法学教育が行われた。

前身である大学南校における言語ごとの学生数が、英語70%、仏語24%、独語6%という構成だった(「大学の誕生」天野郁夫/中公新書)ことからすると、東京大学法学部でも英米法の教育が主体だったと思われる。

当時の日本でこのような外国語による高等教育が可能だったのは、幕末以来の洋学教育の蓄積があったからだ。

明治前半においてはフランス法学派が主流であり、東京大学法学部の学生でも優秀な者は司法省法学校に流れたため、東京大学法学部は英米法に傾斜した。このことは後の民法典論争における東京大学の立ち位置に影響を及ぼしたと思われる。

 

これらの外国語による法学教育では、しかし、法曹、特に代言人(弁護士)の育成が間に合わず、日本語による法学教育の体制づくりが急務となった。

この間隙を埋めたのが、司法省や東京大学法学部の関係者らが設立した私立の法律学校だった。

1880年代前半に「五大法律学校」と呼ばれた私立法律学校が設立された。専修学校(現・専修大学)、明治法律学校(現・明治大学)、東京法学校東京法学社の後身、後の和仏法律学校。現・法政大学)、東京専門学校(現・早稲田大学)、英吉利法律学校(後の東京法学院、現・中央大学)である。

明治法律学校東京法学校フランス法系、専修学校・東京専門学校・英吉利法律学校はイギリス法系だった。

 

そのような中、1889年(明治22年)、今日にまで至る我が国の法制のあり方を決することとなった大論争が勃発した。いわゆる「民法典論争」である。

 

明治政府は不平等条約改正に向けて国内法制の整備を急ぎ、1890年(明治23年)4月、ボアソナードに起草を依頼した民法典を公布し、1893年明治26年)1月1日から施行することとなった。

ところが、1889年(明治22年)5月、東京大学法学部の出身者で組織する法学士会が、政府の拙速主義を批判し、施行延期を求める意見書を総理大臣と枢密院議長に提出し公表したことが論争の発端となった。

また、帝国大学法科大学(東京大学法学部から改組)の教授だった穂積八束(ほづみ やつか)が発表した「民法出デテ忠孝亡ブ(ほろぶ)」という論説は国論を刺激した。

これに対し、施行を断行すべしと主張したのが、同じく帝国大学法科大学教授でフランス法学派の梅謙次郎(うめ けんじろう/ 後に法政大学初代総理)だった。その立場は、成立した民法典に欠陥があることを認めつつも、成文法があることによる発展性を重視し、欠陥は後で直せばいいというものだった。

 

この論争は、政府が目指す不平等条約の改正に直接影響するものであり、また、財産法や家族法を通じて経済・社会のあり方に関わるものであったため、法学界のみならず政界・経済界・言論界などを巻き込んだ社会的・国家的な大論争となった。

 

この論争の最前線に立ったのが、延期派である帝国大学法科大学と東京法学院(ともにイギリス法学派)、対する断行派が明治法律学校和仏法律学校(ともにフランス法学派)であり、両学派による勢力争いとなった。

特に明治法律学校は断行派の主力だったが、そもそもこの学校は設立当初から自由民権運動の拠点となった気骨ある存在だった。

東京専門学校と専修学校法律学校としてはあまり振るわなかったため、民法典論争においても目立った立場には立たなかった。

 

結局、この争いは延期派(イギリス法学派)が勝つこととなったが、富井政章(とみい まさあきら/ 帝国大学法科大学教授を経てこのとき貴族院勅選議員)の貴族院演説が論争の決着に大きく寄与したと言われている。

その演説は、法典が簡明を欠くこと、準拠したフランス民法が1804年に成立して以後の学問の進歩が取り入れられていないことを挙げ、「法典を拵える(こしらえる)と云ふことは決して条約改正のためでない、日本国の法典を作るんであります」というものだった。

 

論争の決着により民法典の修正を行うこととなり、穂積陳重(ほづみ のぶしげ/ 東京大学法学部長を経てこのとき貴族院勅選議員)、富井政章、梅謙次郎の3名が起草委員となって、当時最新のドイツ民法草案を参考として改正を進め、1898年(明治31年)、我が国最初の民法典が施行された。

 

民法典論争で勝利したのはイギリス法学派であったが、民法典の改正に当たってイギリス法が取り入れられることはなかったことは、この論争の性格の一端を物語っている。新民法典にドイツ民法が取り入れられた結果、この後、法学の主流はフランス法学からドイツ法学へと移っていくこととなった。

 

勝利者となった東京法学院は、東京帝国大学法学部(帝国大学法科大学から改組)との関係を強め、後に中央大学となって司法試験や公務員試験に大量の合格者を出すに至った。

敗れた明治法律学校和仏法律学校は厳しい環境に置かれたが、しぶとく生き残り、後に明治大学、法政大学となって、様々な分野に有為の人材を輩出した。

明治大学などは、かつて自由民権運動の拠点として政府に睨まれるほどの硬派の学校であったにもかかわらず、現在では校舎を新しくして女性の好感を得て女性受験者を増やし、志願者全国1位を獲得するに至った。

法政大学に至っては、女性総長を戴いて、やはり女性受験者に支持を広げ、実志願者数で全大学の1位に輝いたのみならず、2020年(令和2年)9月16日、卒業生からついに内閣総理大臣を輩出するに至った。

 

青年日本の時代の若々しい躍動が偲ばれる。