多摩川通信

昭和・平成の思い出など

阿南陸相の自決

阿南惟幾(あなみ これちか)は、太平洋戦争終戦時の陸軍大臣で、昭和20年8月15日、「一死以テ大罪ヲ謝シ奉ル 神州不滅ヲ確信シツツ」という遺書を残して自決した。


終戦時、陸軍内部では戦争継続を主張する声が強く、内地240万人・外地300万人の将兵を擁する巨大組織にかつて経験したことのない敗戦を受け入れさせることは容易ではなかった。
国の存続さえ確かではないという未曽有の状況にあって、誰もが浮き足立って冷静を欠いていた時である。
阿南は、終戦を目指す鈴木貫太郎首相らと徹底抗戦を主張する陸軍との間で板挟みになりながらも、陸軍の暴発を抑えることに腐心しつつ最後まで陸軍大臣を辞任しなかった。
陸軍はそれまで、軍部大臣現役武官制の下で、陸軍大臣が辞任して後任を出さないことで倒閣を図り、陸軍の意志を通すということを行ってきたが、阿南はそれをしなかったのだ。
阿南陸相の自決は陸軍に引導を渡すものだった。


昭和42年(1967年)に公開された東宝映画「日本のいちばん長い日」で、三船敏郎が演じた阿南陸相切腹シーンは凄まじい緊迫感に満ちていて、思わずテレビの前で背筋を正したことがある。
だが、その原作である半藤一利のノンフィクション「日本のいちばん長い日 運命の八月十五日」に記されている証言を読むと何か少し違う。
実際には、遺書を書き上げてから自決するまで、部下を相手に長々と酒を飲み続けたという。
同著によれば、午前2時頃から飲み続け、自決したのは朝の5時半頃だった。
少しろれつが回らないほどに酩酊し、部下が失敗を気遣って飲み過ぎを注意したという。


巨大組織の無念と謝罪を独りで引き受けて死んでいこうとする者の佇まいは、自ずから厳しく静謐なものであっただろうと思い込んでいたが、随分と印象が違った。
あるいは、末期の酒を楽しみ尽くしてから死に向かおうとするのもまた、大人の風格というものであろうか。
古来、型どおりに行われた切腹は実は少ないという説もあり、事実をそのままに受け取るべきなのかもしれない。


ただ、それ以上に解せないのは、陸軍将兵の暴発を抑えようとしてきたはずの阿南が、中堅将校たちがクーデターを企てて近衛師団長を殺害したとの報告を受けたにもかかわらず、一切対処せずに酒を飲み続けたことだ。
その中堅将校たちは、天皇のいる宮城を占拠したのである。
天皇から信頼され、天皇から賜ったシャツを身に着けて自決に臨んだほどの阿南が、天皇の危機を知りながら動かなかったのは理解に苦しむ。


NHKアーカイブズ「証言記録 兵士たちの戦争」に、当時、近衛歩兵第二連隊の中隊長として宮城内にいた人の回想がある。
「参謀からの玉音盤捜索命令」|戦争|NHKアーカイブス
それによれば、近衛歩兵連隊はクーデターとは知らずに偽命令に従って動いたという。
東部軍管区司令官だった田中静壱(しずいち)大将の果断な対処により、宮城は解放されクーデターの企ては瓦解したが、証言者は、首謀者である中堅将校たちの上司や阿南陸相以下の軍上層部が部下の勝手な行動を制止しようとしなかったのはおかしいと語っている。
いかに敗戦下の混乱した状況であったにせよ、まことに不可解な点である。


上記のアーカイブズには、田中大将の副官だった人の証言もある。
「目の当たりにした宮城事件」|戦争|NHKアーカイブス

田中大将から、どのような方法で自決するつもりか阿南大臣に聞いてこいと言われ、十文字に腹を切るつもりだという陸相の回答を報告すると、大将は「腹を切るのは痛そうだな」と言って苦笑いしたという。
田中大将は、後に拳銃で心臓を撃って自決した。
田中という人の人間味が感じられる話だ。