多摩川通信

昭和・平成の思い出など

登る理由

 

登山はスポーツなのだろうか。たとえば短距離走であれば、学校の運動会からオリンピックに至るまでスポーツであることに疑問を差しはさむ余地はまったくない。上位の競技会になればなるほどスポーツとしての性格が際立つ。

その点で登山は明らかに異なる。難度が高くなるにしたがって危険度が増し、高難度の山では死とぴったり背中合わせになってしまう。それはスポーツの枠に収まるものだろうか。登山をやらない者としては「何のためにそこまでして」と思ってしまうのだが、困難を克服して山頂に到達する喜びは、ひとたび味わってしまうと虜になるもののようだ。

 

一体、山でどれだけ遭難が発生しているのだろう。警察庁の統計によると令和3年の山岳遭難は2,635件、遭難者は3,075人であり、遭難者のうち死者・行方不明者は283人だったという。遭難者の78パーセントが登山によるものだったというから、登山における死者・行方不明者は年間220人ということになる。1年間に登山者がそんなにも亡くなっているとは驚きだ。他のスポーツで毎年こんなに死者が出たら大騒ぎだろう。

 

最高難度の登山というものはどういう世界なのだろうかと、「凍(とう)」(沢木耕太郎新潮文庫)を読んでみた。これは、ヒマラヤの高峰にたった2人で、しかも酸素ボンベなしで挑んだクライマーたちの壮絶な闘いを鮮明に再現したものだ。このクライマーたちとは山野井泰史と山野井妙子の夫妻である。2人とも8千メートル峰で先端的な登頂に成功するなど世界的な実績を有するクライマーだった。

 

2002年10月6日未明、2人はエベレストのすぐ隣にそびえるギャチュンカン(7,952メートル)の北壁(山頂までの標高差約2千メートル)を上り始めた。両手に持ったピッケルとアイスバイルを氷壁に叩き込むとともにアイゼンを蹴り込んで両手両足を使って60度から80度の絶壁を登っていく。

登頂まで3日かかり、下降にはさらに3日を要した。その間、氷壁にへばりつくようにして5回のビバークをしたが、テントで満足に横になれたのは1回だけで、それ以外は零下40度にも達する寒気の中で寝袋もなしで氷壁に固定したロープに頼って夜明けを待った。当然、満足な睡眠などとれない。

登りの2日目から激しい吹雪になり、下降では6回も雪崩の直撃を受けた。ロープによって辛うじて落下を免れたが手袋やゴーグルを吹き飛ばされた。加えて低酸素のため2人とも下降の途中で一時的に視力を失い、氷壁素手で探りながら降り続けた。

 

妙子は過去の登山で、凍傷により手足の指18本の第2関節から先を失っていた。しかも、ベースキャンプにいた時から高山病の症状が現れ、登山の間中ほとんど飲食ができなかった。そんな状態で切り立った氷壁の登り降りを6日間にもわたって行ったのである。人間の力というものは計り知れないものだと驚嘆する。

この登山で、泰史は両手の指4本と右足の指すべてを、妙子は両手の指の残っていた部分をすべて失ったが、その後も2人は難度の高い山に登り続けた。

 

「凍」の描写があまりにリアルだったので、読んでいるだけで高山病になりかけたが、読み終わって少し理解できたように思ったのは、山を登る者にとって「何のために」などという問いはもはや意味がないということだ。とにかく登りたいのである。それはもはや本能的な欲求というべきものなのかもしれない。

 

 

新田次郎は「劒岳 点の記」(文春文庫)を少し違った視点で書いた。「点の記」とは測量の世界で三角点を設置した時の記録のことをいう。明治21年以来の「点の記」は国土地理院に保管されている。

1907年(明治40年)7月13日、陸軍参謀本部陸地測量部(現在の国土地理院)の測量隊が、当時日本で唯一未登の山とされていた剱岳への登頂に成功して、山頂に三角点を設置した。

剱岳立山信仰においては「登ってはならない山」とされていて、実際にもそそり立つ岩壁が険しすぎて、登り口を見出すことができない山だった。登山ルートが整備された現在でも多くの登山者が命を落としている。

 

修験道の行者(山伏)が語った「私の師が死ぬ折、もし劒岳に登るならば雪を背負って登り、雪を背負って帰れと云い言残して死んだ」という言葉に活路を見出し、測量隊は急峻な雪渓を登り始める。大雪渓を登りきった先に高さ60メートルにも及ぶ大岩壁が山頂を覆い隠すようにしてそそり立っていた。隊員たちはその岩壁に取りついて攀じ登った。その上に続く雪原を登りつめ、さらに岩場を登りきった先に頂上があった。

 

山頂に立った時、彼らは自分たちが初登頂ではなかったことを知る。そこには緑青がふいた錫杖(しゃくじょう)の頭部と赤錆びた鉄剣が並べて置かれていたのである。錫杖とは修験者が山岳修行で使用する杖である。

現在、この遺物は、国から重要文化財の指定を受けて、富山県立山博物館に収蔵されている。その製作年代については、奈良時代後期から平安時代初期とされていたが、近年行われた蛍光X線分析の結果、現在では平安時代初期のものと推定されている。

銅錫杖頭附鉄剣(剣岳発見) | 文化遺産検索 | とやまの文化遺産

 

登山用具や登攀技術が進歩した現代ですら容易には登れない山に、1200年もの昔、山伏はどうやって登ったのか。剱岳がかかげる衝撃的な謎である。しかし、謎を謎のままにはしておかないという人が必ずいる。

剱岳 線の記」(高橋大輔朝日新聞出版)は、この謎に真正面から取り組んで、平安時代剱岳初登頂の実像についてひとつの答えを提示した。古代の事績の痕跡を、地形や伝承あるいは文献の中にひとつひとつ発見していく展開に思わず引き込まれた。特に、実地の検証を通じて、平安時代の人間が登り得たと思われるルートを特定した功績は大きい。

 

だが、そもそも、錫杖頭と剣を置いた者は剱岳の初登頂者だったのだろうか。実は明治40年の測量隊による登頂よりも前に剱岳に登った者がひとりならずいたことが、まさに本書で取り上げられている。測量隊が登った前年、鉱物探査の従業者2名が山頂まで登ったことが当時の文献に記されている。さらには江戸時代にも行者や加賀藩士が登ったことが伝わっていた。

 

江戸や平安の人間が登ったのなら、平安時代よりさらに昔の人間が登っていたことだって十分あり得る。山を見れば登らずにはいられず、平地においてすら人より高いところに上がりたがるのが人間である。はるか昔、剱岳を見上げては「登りたい」と思いを募らせ、ついに山頂を踏んでしまった者がいたとしても全く不思議でない。