多摩川通信

昭和・平成の思い出など

DNAの人間模様

 

今から70年前の春、ふたつの偉業が達成された。世界最高峰エベレストへの初登頂とDNAの内部構造の解明である。

DNAの構造は二重らせんの模型で提示された。相互に反対方向に並行する2本の鎖からなる構造は、それ自体が細胞が複製されるメカニズムを現わしていた。ついに人類は生命の神秘へとつながる扉を開けたのである。「20世紀最大の発見」と称えられる所以だ。

1962年、この発見に対しノーベル生理学・医学賞が授与された。受賞者はフランシス・クリック、ジェームズ・ワトソン、モーリス・ウィルキンズの3人だった。構造解明の基礎となった解析データを収集した女性研究者ロザリンド・フランクリンは1958年に亡くなっていた。

 

DNAの解明という華々しい業績の陰に、女性研究者の研究成果が「盗まれた」という穏やかでない話があることを何かで目にした記憶がある。世紀の発見の現場で一体何があったのか。

 

「ダークレディと呼ばれて 二重らせん発見とロザリンド・フランクリンの真実」(ブレンダ・マドックス/化学同人)を読んでみた。この本はフランクリンの生涯と研究実績を比較的中立的な視点で追ったものと言われている。

フランクリンはケンブリッジ大学で物理化学の博士号を取得し、フランス国立中央化学研究所でX線回折(X線を用いた結晶構造の解析)の技術を習得した後、ロンドン大学キングズカレッジのジョン・ランドールの研究室でX線回折によるDNAの構造分析を行った。

このランドール研究室の副主任だったウィルキンズとフランクリンの確執がDNA構造の解明という栄誉の行方を左右した。

 

「ダークレディ」を読み終えて次の疑問が残った。

①「盗まれた」という事実は明らかになっているのか?

②ウィルキンズとフランクリンの確執の原因は何だったのか?

③ウィルキンズのノーベル賞受賞は妥当だったのか?

 

この疑問を明らかにするには関係者全員の言い分を聞く必要がある。そこで、さらに次の3冊に目を通してみた。

「二重螺旋 完全版」(ジェームズ・ワトソン/新潮社)

「二重らせん 第三の男」(モーリス・ウィルキンズ/岩波書店

フランシス・クリック 遺伝暗号を発見した男」(マット・リドレー/勁草書房



盗まれたとされるのはフランクリンが撮影したDNAのX線回折画像である。ウィルキンズがこの写真を不正に入手してワトソンに見せたという説が流布してきた。だが、ウィルキンズの死の前年に刊行された上記「第三の男」に記されている事実は異なる。

フランクリンが他の研究所に移ってDNA以外の研究をすることになったため、1953年1月、共同研究者だったレイモンド・ゴスリングに写真のネガを持参させてウィルキンズにその使用を委ねたのだという。このことは2012年にゴスリング自身も証言しており、その証言録が上記「二重螺旋 完全版」に収録されている。

ウィルキンズがなぜもっと早くこの事実を世に示さなかったのか不思議だが、1968年にワトソンの回想録「二重らせん」が刊行された時、ベストセラーになって話題をさらった一方で関係者の反発を浴びて騒動になったことが脳裡にあったためかもしれない。

 

クリックについても研究モラルが問題とされた。ランドール研究室は医学研究評議会(MRC)から研究資金を受けていたため研究報告書を提出する必要があり、その中にフランクリンのX線回折データも含まれていた。クリックの指導教官だったケンブリッジ大学のマックス・ペルーツがたまたまMRCの調査委員で、その報告書をクリックに見せたことが問題になった。

上記「フランシス・クリック」に記されているペルーツの言い分によると、報告書は評議会内で回覧されるもので機密扱いではなかった。データの中には公開の研究会で発表済みのものもあった。その公開データこそ2本の鎖が相互に反対方向に走っていることを示すものに他ならなかった。フランクリンはそのことを理解していなかったのだが、クリックは即座にそれに気がついた。実は理解できていなかったのはワトソンも同じだった。

ちなみに、クリックとワトソンの補完関係という点で言えば、理論上、螺旋をなす鎖は2本でなければならないことをワトソンは明確に理解していたが、クリックは懐疑的だった。

 

以上の事実からすると、ワトソンとクリックの発見について不正を疑うべき点はない。では、なぜそのような疑惑が生じたのか。その遠因はワトソンの「二重らせん」にあった。

フランクリンの存在は一般には知られていなかったのだが、「二重らせん」が出版されるとフランクリンを揶揄した描写がフェミニズムを刺激した。フランクリンの友人だったアン・セイヤーはワトソンに対する嫌悪感丸出しで「ロザリンド・フランクリンとDNA」(邦題には「ぬすまれた栄光」というサブタイトル付き)を書いたが、事実誤認が多いその伝記はフランクリンを悲劇の主人公に仕立て上げ、研究の功績が奪われたという俗説を生むきっかけになった。



次にウィルキンズとフランクリンの確執の原因である。直接の原因になったのは研究室の主宰者であるランドールがフランクリンに送った手紙だった。フランクリンの研究テーマはタンパク質の予定だったのだが、ウィルキンズの提案でDNAの研究に変更されることになった。

ウィルキンズは自分の研究チームの一員として受け入れるつもりだったのだが、ランドールの手紙には「DNAのX線研究はフランクリンとゴスリングが2人で担当する」と記されていたのだ。

やがて、研究室の断裂が外部の目にも明らかとなり、ランドールが新たに仕切り直しをしたのだが、それがまたさらにウィルキンズの研究を阻害する結果になってしまった。ウィルキンズは、ランドールが自らDNAの研究に乗り出そうと意図したことから生じた混乱だったと記している。

 

しかし、原因はそれだけだったのだろうか。ランドールの研究室の特長は構成の緩やかさにあったとウィルキンズは記しているが、着任してしばらくすれば互いの立場は理解できたはずで、関係改善の余地はあっただろう。そうならなかったのはなぜか。

これは私の専門に近い。週刊新潮週刊文春の立ち読みで研鑽を積んだ感覚が「何かあったはずだ」と訴えてくる。その何かは「ダークレディ」、「二重螺旋」、「第三の男」の中で仄めかされているのを私は見逃していない。字数の関係で詳しく述べることができないのが残念だ。

 

 

最後に、ウィルキンズのノーベル賞受賞は妥当だったのかという点である。

物語の始まりは1951年春のナポリだった。ナポリで開催された学会でウィルキンズが発表したDNAのX線回折画像が世界中の研究者の関心を集めた。それはDNAの内部構造を初めて捉えたものであり、ウィルキンズとゴスリングが撮影に成功したものだった。これに激しく衝撃を受けたのが若きワトソンだった。  

「突如として私は化学の威力に胸をつかまれた。モーリスの話を聞くまでは遺伝子とはどうしようもなく不規則なものかもしれないと心配していた。しかし今や私は、遺伝子は結晶になれるということを知った。つまり遺伝子は、普通に調べることのできる規則的構造を持つということだ」(「二重螺旋」)とワトソンはその日の興奮を記している。

 

ワトソンとクリックの発見を導いたのは、ウィルキンズとフランクリンをはじめとするランドール研究室の研究者たちだった。DNAの回折パターンから螺旋状である可能性に最初に思い至ったのは物理学者のアレック・ストークスだったし、DNAの内部構造について多くの実証データを収集したのはゴスリングだった。ウィルキンズとフランクリンの共同研究が円滑に行われていればワトソンとクリックより早くゴールに到達した可能性が高いと見られている。

必要なデータを積み上げたのはランドール研究室だったのだ。だからこそ、ワトソンとクリックは論文に共著者として名を連ねてほしいとウィルキンズに申し出たのだ。ウィルキンズは誇り高くそれを拒否した。

しかし、ランドール研究室の功績がノーベル賞にふさわしいことは明らかで、誰かがその研究を代表して受賞すべきだった。ウィルキンズは「第三の男」に「共同研究が科学の進歩をもたらす」という信念を繰り返し記している。その信念からすれば、代表して受賞することに一片の迷いもなかっただろう。X線回折の創始者でありノーベル賞受賞者のローレンス・ブラッグは、ウィルキンズの受賞をことのほか喜んだという。