多摩川通信

昭和・平成の思い出など

昭和の遠景とプロ野球中継 

 

昭和の居間にプロ野球中継はよく似合った。ブラウン管テレビの前で、のんびりした団らんと野球のリズムが調和していた。

 

平成が年を重ねるにつれてテレビの野球中継が減った。視聴率の低下が理由だが、背景には家族がそれぞれに忙しくなった生活様式の変化がある。携帯電話とインターネットの登場によって余暇の過ごし方が多様化し、野球の試合時間の長さが新しい生活スタイルに合わなくなったのだ。

 

この状況と軌を一にして変わったものがある。スポーツ新聞の発行部数である。日本新聞協会の集計によると、2021年のスポーツ新聞(16紙)の発行部数(237万部)は、2000年(631万部)から62%も減少した。一般紙の発行部数も大きく減少したが、それでも同年の比較で35%減である。スポーツ紙は実に劇的な速さで読まれなくなったのだ。

 

かつてスポーツ新聞の1面を飾ったのはほとんどがプロ野球だった。それが象徴しているように、野球は昭和のスポーツの王者だった。スポーツ紙の記者は、プロ野球各チームの監督と選手に密着し、長い時間をかけて試合結果の背後にある要因と実情を丹念に追った。そんな手間暇をかけた取材ができたのは、スポーツ新聞社にプロ野球人気に支えられた豊富な資金力があったからだ。

 

「嫌われた監督 落合博満は中日をどう変えたのか」(鈴木忠平/文藝春秋)は、そのような時代のスポーツ新聞記者だった著者が、当時の取材記録に基づいて、中日ドラゴンズ落合監督と選手たちの8年にわたる栄光の軌跡の背後にあったものを見つめ直したものである。

 

本書は、駆け出しの記者だった著者が落合邸の前で出待ちをする場面から始まる。以後も自宅だけでなく球場でも頻繁に出待ちをする。時には落合家の休日旅行に同行して落合の内面に迫ろうと試みる。さらには練習や試合で落合と選手の動きを何日も執拗に目で追う。

このような濃密な取材に基づくスポーツ・ノンフィクションは今後も世に出続けるだろうか。たとえ新聞の衰退が避けられないとしても、読み応えのあるノンフィクションの系譜が絶えることがないことを願ってやまない。

 

落合は、2004年から2011年の8年間で、中日監督として4度のリーグ優勝と球団として53年ぶりの日本シリーズ制覇を成し遂げた。その間、Aクラス(リーグ戦3位以上)を逃したことは一度もなく、歴代中日監督の中で最高の成績を収めた。

 

本書を読むと、落合の行動原理は、選手としても監督としても、プロフェッショナルとしての徹底した合理性の追求にあったことがわかる。それが端的に現れたのが2007年11月1日の日本ハムとの日本シリーズ第5戦だった。この試合、中日は、勝てば53年ぶりとなる日本一に王手をかけていた。

 

中日の投手、山井大介は、日ハムのダルビッシュと投げ合って8回終了まで一人の出塁も許さず、1点のリードを守っていた。山井はこのとき指の皮がむけて出血しながらの投球だったが、日本シリーズ史上初の完全試合達成が目前だった。

しかし、落合はここで山井を降板させ、シーズンを通して抑え投手として揺るぎない実績を残してきた岩瀬仁紀をマウンドに送った。岩瀬は9回表の日ハムの攻撃を完璧に抑え、チームとしての完全試合が達成された。

ドラマチックなロマンより手堅い勝利を優先させた落合の采配に対し、ファンのみならず球界からも非難と異議が巻き起こったが、勝ったからこその輝かしい記録は紛れなく球史に刻まれた。

 

この冷徹な合理主義から、落合は選手にヘッドスライディングを禁じた。派手なプレーではあるが負傷のリスクが高い行為を、プロフェッショナルとしてのあり方に反するとして退けたのだ。選手として長く野球を続けることを目指すのがプロだと。

ところが、落合の監督退任が発表された翌日の試合で、俊足で知られた守備の名手、荒木雅博は、自らの判断で、勝負をかけた本塁ヘッドスライディングを敢行した。

 

2011年9月22日、中日球団は落合のシーズン限りでの退任を発表した。2000年代に入り親会社である中日新聞社がインターネットに押されて発行部数が減少した影響で球団の資金力が低下し、落合の高額な監督報酬に耐えられなくなったことが退任の背景だった。

 

荒木が挑んだのは翌23日の首位ヤクルト戦での同点で迎えた8回裏だった。荒木はツーアウトで2塁上にいた。バッター井端弘和のセンター前ヒットで3塁を蹴ってホームへと疾走する。キャッチャーに返球が届き誰もが無理だと思った瞬間、キャッチャーミットをよけるようにして飛んだ荒木の左手がホームベースを攫った。球場全体が大歓声で沸き返った。その勢いのまま首位を奪取し、中日は4度目のリーグ優勝(連覇)へと駆け上った。

 

荒木は著者との会話の中で千利休の教えを口にしたことがあるという。利休道歌の「一より習ひ十を知り 十よりかへるもとのその一」だった。落合は自分が禁じたヘッドスライディングを荒木が自らの判断で敢えて実行したことに満足していたという。

 

また、落合の監督時代後半、著者は落合夫人から、落合が毎晩眠れず、睡眠導入剤を服用していることを聞いたという。まさに対象との密接な関係構築によってその内面に迫る取材方法でなければ得られなかったエピソードだろう。

 

夏が近づくにつれ、遠ざかっていく昭和の遠景の中に、プロ野球中継が満ちていた夏の宵がよみがえる。