多摩川通信

昭和・平成の思い出など

チェコスロバキア「ビロード革命」に潜む謎

 

東欧革命―権力の内側で何が起きたか (岩波新書)

東欧革命―権力の内側で何が起きたか (岩波新書)

 

 

1989年は世界史上、極めて特異な年だった。東欧各国における社会主義体制の崩壊がこの1年に集中して起きた。以下に関連する出来事を時系列に並べてみよう。

 

5月 ハンガリーオーストリアとの国境を開放するため、国境に設置された鉄条網の撤去に着手。

6月 ポーランドで実施された限定的自由選挙において、非共産党系の自主管理労組「連帯」が圧勝して政権を奪取。

8月 ハンガリーの民主活動家が主催したオーストリア国境での「汎欧州ピクニック」集会に東ドイツ国民が殺到し、ハンガリーオーストリア両国政府の黙認により東ドイツ国民数千人が西ドイツへ向けて逃亡。

10月18日 東ドイツにおいて、最高指導者のホーネッカーが失脚し、12月に共産党一党独裁を放棄。

10月23日 ハンガリー共産党独裁を廃止。

11月9日 ベルリンの壁が崩壊。ブルガリアでジフコフ共産党書記長による長期政権が崩壊。

11月17日 チェコスロバキアで「ビロード革命」が勃発。

12月3日 米ソ、冷戦終結を宣言。

12月25日 ルーマニアチャウシェスク大統領夫妻を処刑。

 

第2次大戦直後にソ連の勢力下で社会主義国家となった東欧諸国は、約40年の歳月を経て、奇しくも1989年の同じ年に相次いで崩壊した。ソ連の崩壊は1991年12月である。

 

ソ連社会主義陣営を堅持するために示したのが「ブレジネフ・ドクトリン」である。これは「社会主義共同体の利益は各国の個別利益に優先する」というものであり、チェコスロバキアが自由化と民主化の拡大を図った1968年の「プラハの春」に対し、ワルシャワ条約機構軍が行った軍事介入を正当化するための理論だった。

 

早すぎた春が封殺されたこの事件以後、チェコスロバキアではソ連の意向に忠実な政権が維持されてきたため、他の東欧諸国で体制転換の動きが顕在化した中でも変革の動きは鈍かった。そのチェコスロバキアを一気に体制変革へと推し進めたのが「ビロード革命」だった。死者を出すような激しい騒乱が生じなかったということで「Velvet  Revolution」(ビロードのように滑らかな革命)と呼ばれるようになった。

 

ところが、このビロード革命には奇妙な点がある。

 

1989年11月17日の夕刻、共産党の下部組織であるチェコスロバキア社会主義青年同盟が主催し、学生組織も加わった当局公認のデモ隊数万人がプラハのカレル大学医学部の前を出発した。プラハ市当局は市中心部のバーツラフ広場に侵入しないことを公認の条件としていた。

しかし、夜になってデモ隊の一部約1万人がバーツラフ広場へと向かい始めたため、警官隊がデモ隊を包囲し、内務省の特殊部隊が警棒を用いて強制的に解散させた。この衝突で学生143人が逮捕される事態となった。このとき、学生の一人が死亡したという噂が市民の間に広がり、それがきっかけとなって民主化を要求する連日の大規模デモへと発展した。

18日、ラジオ・フリー・ヨーロッパ(米国政府系の放送局)が、20歳の男子学生が警官隊に殺害されたというニュースを放送したことがデモの拡大に拍車をかけた。大学や劇場から始まって各地でストライキが発生し、27日には全国でのゼネストに発展した。

このような国民の動きに抗しきれず、ついに共産党政権が倒れ、12月、反体制派の劇作家だったハベルを大統領とする非共産党政権が誕生した。

 

共同通信の記者による「東欧革命」(三浦元博、山崎博康/岩波新書)は、チェコスロバキア連邦議会の調査委員会がビロード革命の発端となった学生デモに関し、内務省高官や警察幹部など多数の当事者に事情聴取を行って作成した中間報告書を入手し、その内容を記している。

この中間報告書によれば、死亡したとされる学生は、実は以前から学生グループに潜入していた秘密警察の警察官で、死んだふりをしただけだった。学生のデモ隊がバーツラフ広場に向かうように誘導したのも秘密警察の別の警察官だった。

同報告書は秘密警察長官兼内務次官だった人物が事件の鍵を握っていると結論している。この人物は前月にモスクワを訪問し、KGBソ連秘密警察)の議長・副議長と会談していた。調査委員会委員長は、この人物がチェコスロバキア共産党書記長ヤケシュを失脚させる計画をモスクワ側に説明したことを示す秘密警察の文書が見つかったことを明らかにした。

同報告書はさらに、反体制運動が拡大するや治安当局が一転して放任に回ったことを「実に不可解」と記し、共産党指導部の失脚が狙いだったと記していたという。

ところが、1992年1月に発表された調査委員会の最終報告書は、中間報告書と大きく異なっていた。最終報告書では謀略説は否定され、学生死亡の噂は精神不安定な若い女性が流した作り話であり、それを耳にしたデモ参加者が、けがを装って路上に横たわる秘密警察官の姿を見て死亡学生と受け取ったという内容に変わっていたという。

 

上記「東欧革命」は、11月17日のプラハでの出来事の背後にソ連がいたと見ているが、ソ連の立場からすれば「ブレジネフ・ドクトリン」を放棄するだけで足り、東欧各国の体制の在り方は各国に委ねてよかったはずだ。革命の実行にまで関わる必然性はない。むしろビロード革命の背後にいたのは米国だったと言われた方が腑に落ちる。米ソ首脳が冷戦終結を宣言したマルタ会談まで半月の出来事だった。

 

1990年1月1日、ハベル大統領は国民への演説の中で次のように語った(「東欧革命」)。

「最も悪いことは、我々が退廃した道徳世界に生きているということです。考えとは別のことを言うことに慣れてしまったため、我々は道徳的に病んでいるのです。他人への不信と無関心、利己主義が日常生活を支配しています。愛、友情、連帯、謙虚、寛容はその深さと広がりを失ってしまいました。

権力者が全能者であってはならないと、声を大にして叫ぶ勇気を示した人々はほんの一握りに過ぎません。尊大かつ不寛容なイデオロギーを持った従来の政府は、人間を生産力に、自然を生産手段に貶めてしまいました。

しかし、我々は全体主義に慣れ、それを変更し難い事実として受け入れ、生活の一部としてしまったのです。言い換えれば、我々すべての者が、多かれ少なかれ、全体主義装置の作動に責任があるのです。全体主義の単に犠牲者だった者はおりません。すべての者が同時に、全体主義をつくり上げてしまったのです。」

 

搾取される立場にあった労働者の幸福を希求して打ち立てられたはずの社会主義国家が、個人の自由と社会の多様性を奪ってしまった人類史の余りに不幸な試みを振り返るとき、渦中にあった人々の痛ましい思いが胸に刺さる。