多摩川通信

昭和・平成の思い出など

蝦夷が駆ける


古代、東北地方の人々は蝦夷(えみし)と呼ばれた。蝦夷の住む地域は大和朝廷の直接支配の外であり、いわば日本国の外だった。

それでは蝦夷は未開の民だったかというと、どうもそうではないらしい。考古学調査の進展により、蝦夷の実像が次第に立ち現れてきている。

蝦夷が生きた地はむしろ、金や良馬の産出に恵まれ、北海道・千島・サハリンとの交易(鉄、鷲羽、アザラシの毛皮など)が盛んに行われた地域であり、独自の社会形成が進展していたことを裏づける痕跡が発見されているという。

「平泉 北方王国の夢」(斉藤利男 著 / 講談社選書メチエ)は、金、馬、鷲羽の3つが奥州藤原氏の隆盛を支えた莫大な富の源泉だったと説く(鷲羽はオオワシの尾羽で、朝廷の儀式で矢羽に用いられたという)。

しかも蝦夷は、狩猟技術としての弓に秀でていた。弓と馬は武力に通じる。「弓馬の道」と言うように、弓術と馬術は武芸の核心をなす。
実際、蝦夷は強かった。


1051年から1062年にかけて陸奥国奥六郡(岩手県)で戦われた「前九年の役」では、蝦夷の豪族であった安倍氏の軍勢が源頼義率いる朝廷軍に対して、一時、壊滅的な打撃を加えた。頼義は、出羽国仙北(秋田県)の蝦夷の豪族であった清原氏に助力を頼み込み、ほとんど清原氏の軍勢をもって戦に勝利した。
また、1083年から1087年にかけて、清原氏の内紛に源義家が介入して戦になった「後三年の役」でも、蝦夷軍が武勇で鳴る義家の軍勢を撃破する場面があった。


源氏(河内源氏)というのはまた、奥州に縁の深い武門である。前九年の役の頼義から後三年の役の義家、そして奥州藤原氏を滅亡させた頼朝へと続く系譜において、奥州に深く関わり、その結果、「武家の棟梁」としての地位を固め、征夷大将軍に任命されて、鎌倉幕府の開府へと至る。

その間の奥州に対する源氏の執念には凄まじいものがある。前九年の役では謀略を用いてまでして敢えて戦乱に持ち込み、後三年の役では朝廷から追討の官符が得られなかったにも拘わらず、私戦の形で戦を続けた。
このとき源氏が見据えていたのは、蝦夷の広大な土地と北方交易が産む巨大な富だったのではなかろうか。結果としてその富は頼朝の手に渡った。


ところで、蝦夷は異民族だったのかというのは興味深い点である。1950年と1987年に、蝦夷の血を引く奥州藤原氏4代の遺体が調べられたが、和人との際立った違いは確認できず、アイヌの特徴も発見されなかったという。
DNAの分析技術が進んで、東北の現代人に蝦夷の名残を見い出すことはできないものか。秋田美人のルーツという、これもまた興味深い問題とつながったりしたら面白いのだが。