多摩川通信

昭和・平成の思い出など

碑文

横浜市の「港の見える丘公園」にフランス山と呼ばれる場所がある。

幕末に攘夷派による外国人殺傷事件が相次いだ際、フランス政府が自国民保護のためこの地に軍隊を駐屯させたことに由来する。

その土地には安政不平等条約により永代借地権が設定された。横浜市がフランス政府から所有権を買い戻したのは、なんと昭和46年(1971年)のことだったという。

フランス山にある領事官邸の遺構に掲げられている説明板でこの歴史を知ることができる。

 

港の見える丘公園を散策していたときのこと。

フランス山のあたりを通りかけたとき、ふと、プラタナスの大木が並んだ奥に、背景を木々に囲まれるようにしてひっそりと佇む母子像が目に入った。

前にも通っていたのに、どうして今まで気づかなかったのだろうと、不思議に思いつつ近づいてみると、台座の前の地面に横向きに碑文が設置されていた。

 

碑文を読んで衝撃が走った。

「あの事故の?なぜここに?」

戸惑ったまま、しばらく手を合わせてから立ち去りかけたとき、「気づかなかった」のではなく「気づかれないように」ここにあったのだと思った。

 

昭和52年(1977年)9月27日午後1時過ぎ、厚木基地から房総沖の空母ミッドウェイに向かって飛び立った在日米軍のファントム機が、離陸直後にエンジンから出火し、横浜市緑区(現青葉区)の住宅地に墜落して爆発・炎上した。

この事故で、26歳の主婦と3歳と1歳の幼児が全身に火傷を負い、幼児2人は事故の翌日に亡くなり、主婦は壮絶な治療に耐え続けた末、昭和57年(1982年)1月に亡くなった。

 

亡くなった主婦の父親である土志田勇さんは、事故を風化させたくないと、多くの人に見てもらえるように3人の像を建立することを決意し、防衛施設庁横浜市と交渉を重ねた。

土志田さんが遺した「「あふれる愛」を継いで」(七つ森書館)を読むと、防衛施設庁横浜市も、できる限りの誠意をもって対応したように思われる。

しかし、ある局面では土志田さんの思いは決して受け入れられなかった。

 

背景に日米安保体制の堅持という至上の課題があったであろうことは想像に難くない。

対応に当たった防衛施設庁横浜市の個々の職員の心情が思い遣られる。

最終的に横浜市からの提案でフランス山に建立することとなったが、碑文を設置することは認められず、3人が米軍機の墜落事故で死んだ事実を後世に伝えたいという父親の願いは実らなかった。

 

その後28年を経て、市民の声に押されて、平成18年(2006年)1月、やっと碑文が設置された。

 

事故があった昭和52年当時、仮想敵国ソ連の軍事力は日本の安全保障にとって切迫した脅威であり、日米安保条約による抑止力は日本の生命線だった。

他方、70年安保の騒動が治まってまだ日が浅い状況だった。

しかし、1989年の東西冷戦終結と1991年のソ連邦崩壊により、状況は大きく変わった。

母子像に碑文が置かれることになったのは、この状況の変化が作用した面もあっただろう。

 

最近、フランス山を訪ねる機会があったのだが、母子像の周辺が大きく変わっていて驚いた。母子像をとり囲むように茂っていた木々がなくなり、遠くからでも見えるようになっていた。

だが、母子像の位置は、しっかりと海が望める、より多くの人々が見ることができる場所であっていい。碑文には「生前に海が見たいと願っていた」とあるのだから。

 

その日が来るのは、日米安保体制への依存が自立した戦略的な関係へと変わったときだろう。それは、国の軍事力の統制について、先の敗戦で失われた国民の信頼が回復し、安全保障のあり方について国民が自ら冷静な議論と判断ができるようになったときだ。

 

その点で日本の戦後は未だ終わっていない。

 

今の日本は、有事において、政府がしっかりと軍事力をコントロールすることができるだろうか。

母子像が、詳細な碑文を伴って、多くの人々とともに海を見渡せる場所に移される日が来ることを願う。