昭和55年(1980年)前後のこと。
中央線で市ヶ谷に向かう途中だった。昼前だったろうか、電車は空いていた。
新宿駅だったと思う。薄い色の夏の背広を着た老人が一人乗り込んできて、私の真向いに腰を下ろした。
笹川良一だった。
「一日一善」のテレビCMで目にしていたのですぐにわかった。
マスコミではよく「日本の黒幕」とか「右翼の首領」などと書かれていて、戦中・戦後の闇の部分を代表する人物のようなイメージがあった。
当時、80歳前後で、日本船舶振興会や全国モーターボート競走会連合会などの会長職にあったはずだ。
そんな大物がどうして一人で電車で移動していたのか不思議なのだが、それにもまして尋常でなかったのは、向いの私を見据えたすさまじいまでの目力だった。
どこから見ても何者でもない二十歳そこそこの学生を昭和の大物がわざわざ見据える理由など思い当たらなかった。
今思えば私が不遜な印象を与えたのだろうかとも思うのだが、当時は何といっても若者である。
田舎出の若造だからといって侮られてたまるかと、こちらも渾身の気合を込めて笹川良一の瞳を睨み返した。
だが、勝負になるはずもなく、あまりの迫力に気圧されてあえなく眼を逸らしたまま、私は市ヶ谷で電車を降りた。
この思い出を書くにあたって笹川良一について検索してみて不思議に思った。
かつてマスメディアに躍った「黒幕」とか「首領」という呼称にふさわしいエピソードが見当たらないのだ。
ネットの情報があてにならないとは言え、あれほどの存在であれば、悪名を裏付ける事実の断片がいくつかは見つかっておかしくない。
同じように昭和のフィクサーと言われた他の人物達についてはその類の記事が容易に見つかるのと明らかに異なる。
笹川良一に関する情報はネットに多々あるのに悪名を裏付ける事実が出てこないとなると、あの悪名は一体どこから来たのか。
笹川良一(1899-1995)は、戦前、右翼団体である国粋大衆党を結成するとともに、衆議院議員を1期務めた。戦後は、巣鴨プリズン出獄後、競艇を公営ギャンブルとして育て上げ、その収益を国内外で様々な社会支援事業に注ぎ込んだ。
戦前の右翼活動家としての経歴が負のイメージの基になっている面が大きいと思われるが、昭和17年(1942年)の翼賛選挙(第21回衆議院議員選挙)では、東条内閣の政治姿勢に反対して翼賛政治体制協議会の推薦を受けずに立候補し、激しい選挙妨害にも屈することなく上位当選を果たした。
「悪名の棺 笹川良一伝」(幻冬舎、2010年)の著者である工藤美代子は、「今なら名誉毀損ですぐ訴えられるような記事を新聞や雑誌に書かれても、笹川氏は『書いている人にも女房や子供がいて、生活があるんだから』と一切提訴をしなかった。だから、いい加減な情報が野放しになったと思います。」と語っている。https://gendai.ismedia.jp/articles/-/1589
こうなると、根拠のはっきりしないイメージをひとまず脇に置いて、笹川良一翁に対して居住まいを正して正対しなければならないのではないか。
そう思ってあらためて見直してみると、信念を通したスケールの大きい生き方が窺えるエピソードが多い。
たとえば、巣鴨プリズンから出獄後、相場で儲けた金で戦犯とその家族の支援を続けた。それに対する多数の礼状が残っているが、生前、一切公表しなかった。
また、政治的には反共の立場だったにもかかわらず、中国の医学研究者を日本の大学や病院などに受け入れる事業を始め、受入者数は今日までに2千名を超えるという。https://www.jpcnma.or.jp/project/sasakawa/
さらには、個人資産のほとんどを社会支援事業に使い果たした一方で、私生活では徹底して質素・倹約を貫いた。
今あらためて笹川良一翁の目力を思い出す。
歌舞伎では市川團十郎家のみに伝わる「睨み」が有名だ。
幸いなことに今日まで大患いをすることなく生きてこられたのは、翁の「睨み」のおかげだろうか。